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街頭演説
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安心な暮らしほど大切な未来なんてない。 安心な暮らしほど大切な未来なんてない。

高齢者が不安を抱えている街を、幸せな街だと言えるだろうか。
      子どもを安心して育てられない地域に、確かな未来はあるだろうか。
      20年前、突然弟が倒れ、植物状態を経て亡くなった経験から、
      介護や看護に明け暮れる人々の苦しみを知った。
      「子育てに没頭していたら、いつの間にか原発がたくさんできていた」
      と悔やむ実家の母の言葉を聞いて、今やらなければ、いつか子どものために後悔すると思った。
      地域が高齢化し、農家は厳しい状況におかれ、イージス・アショアの候補地となっている秋田。
      介護の問題は、いつも女性が負わされ、防衛やエネルギー政策の問題は、子どもたちに降りかかる。
      政治は、誰のためにあるのだろう。
      本当に助けるべき人を考えれば、答えは自ずと見えてくる。
      ひとりの母親として、ひとりの県民として、生まれ育った秋田を守りたい。
      子どもから高齢者まで、すべての世代を包み込み、つなげていくような社会を作りたい。
      あたりまえに安心して暮らせる毎日こそ、豊かな未来を育てていくと思うから。 高齢者が不安を抱えている街を、幸せな街だと言えるだろうか。
      子どもを安心して育てられない地域に、確かな未来はあるだろうか。
      20年前、突然弟が倒れ、植物状態を経て亡くなった経験から、
      介護や看護に明け暮れる人々の苦しみを知った。
      「子育てに没頭していたら、いつの間にか原発がたくさんできていた」
      と悔やむ実家の母の言葉を聞いて、今やらなければ、いつか子どものために後悔すると思った。
      地域が高齢化し、農家は厳しい状況におかれ、イージス・アショアの候補地となっている秋田。
      介護の問題は、いつも女性が負わされ、防衛やエネルギー政策の問題は、子どもたちに降りかかる。
      政治は、誰のためにあるのだろう。
      本当に助けるべき人を考えれば、答えは自ずと見えてくる。
      ひとりの母親として、ひとりの県民として、生まれ育った秋田を守りたい。
      子どもから高齢者まで、すべての世代を包み込み、つなげていくような社会を作りたい。
      あたりまえに安心して暮らせる毎日こそ、豊かな未来を育てていくと思うから。

寺田 静

私の想い

孤絶する1人、苦しむ1家族のために、
99人が配慮する社会は作れないのか。

私自身について、そして、
なぜ政治の世界に飛び込んだのか、
どんな社会を目指しているのか、
今の偽らざる想いをまとめました。
是非、ご一読いただけましたら幸いです。

私自身について 私自身について

寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。

 父の仕事の都合で小学校3年の夏に青森に引っ越し。その頃、祖父が増田町の町長選挙に出ることになり、母は秋田に手伝いへ。とても寂しかった思い出がある(この思い出が我が子と重なり、今回の決断を悩む原因でもあった)。

全文を読む

 小学校6年の冬に茨城に引っ越し。「転校生」と呼ばれても返事をせず、「もう1ヶ月も経つのに転校生と呼ぶな」と喧嘩したりして、気の強い少女時代だった。前の学校との教科書の違いにより、勉強していない部分を先生が毎朝補習をしてくれ、学力が落ちずにすんだ。本当に感謝。
 この間、両親の実家で、会社が倒産したり、借金の連帯保証人になったりしていたため、親戚が自己破産することになり、両親も建てた家を手放すことに。我が家自体はそれなりに平和ではあったものの、子ども心にも、経済的にあまり余裕がないことを感じつつ育った。

 中学校3年で横手市に戻り、横手南中学校に転校。マンモス校で、管理教育の側面が強く、それに合わず不登校に。11月から卒業までの5ヶ月登校しなかった。
 横手城南高校進学後は楽しく過ごしていたものの、進路指導などを通じ、再び学校生活に息苦しさを感じ高校3年の5月に中退。先生からは「大検に落ちたら戻ってきて。補習して同級生と一緒に卒業させてあげる」と言われる円満中退(?)であった。9月、大検に無事合格。現役の年はセンター試験のみ受けるもひどい点数だったので大学には出願しなかった。
 仙台市で浪人の1年を過ごし、1994年、育英会の奨学金をもらい早稲田大学に進学。心理学などを学んだ。不登校を卒論のテーマにしたいと思っていたが、当時、心理学で扱う不登校が「学校復帰」を軸にしたものが多いことに違和感があり、性格と疾病の関連をテーマに選んだ。そのことから精神医学に興味を持ち、医学部の学士入学試験に挑戦するが不合格。
 「浪人中は働け」との両親の指導の下、東京大学生産技術研究所に勤務。研究室で先生の補佐、留学生のケアなどにあたった。その間、不登校経験があったために興味を持った「フリースクールスタッフ養成研修・実習」に参加。修了後、実習先だったフリースクールジャパンフレネに週一度、東京シューレに1ヶ月、ボランティアスタッフとして勤務した。

 その折、大学生だった弟が倒れ植物状態に。2週間に一度秋田に戻り両親を支えるが、翌年、弟は旅立った。残された家族で一緒に暮らしたいと願い、仕事をやめて実家に戻った。
 弟を失ったことは、本当に大きな出来事で、今までの自分の歩みにすら向き合えなくなっていった。徐々に立ち直るなか、弟はもう何もすることができないのだから、やりたいことはなんでもやってみようと決意。今までテーマとしていた不登校、子どもに関わること以外で、自分が好きな海の環境に関することを仕事にしたいとの思いから、ハワイ大学の海洋科学部に学士入学。
 一時帰国中の2003年、父から言われ、初の衆議院選挙を迎えていた寺田の選挙を手伝わされた。「政治なんて本当は大嫌い」、「一刻も早く立ち去りたい」との思いが強かったが、同世代が集まり、真面目に地域や国を変えようと将来を語り合う雰囲気に徐々に引きこまれていった。当選後、興味がある教育や環境問題などに関われることに魅力を感じ、また、これまで社会を変える努力をせず、自分が出ていくことだけしか考えていなかった反省もあり、秘書となった(ハワイ大学は中退)。主に国会事務所にて、子ども子育て政策、男女共同参画、医療・環境分野などに興味を持ち、様々な勉強会に参加した。

 2009年9月、寺田と結婚。川口博衆議院議員公設秘書を経てベネッセの福武氏が音頭をとる電気自動車普及協会の立ち上げに参加させてもらう。その後、参議院議員となった義父の事務所を手伝った。
 夫落選中の2013年、諦めていた子どもを授かる。
 2014年、夫再選。育児に忙殺され過ごす。この間、英語を活かし、県内の友人の海外事業や取引をサポート。
 2019年、自ら政治に向き合うことを決めた。弟を失った時を境にして正面から向き合えなかった社会問題に、正直に、まっすぐ向き合おうと決意した。

 以上が私のこれまでの歩みです。
 自分自身でも平坦な半生ではないと感じていますが、その分、考えたことも多いと思っています。夫曰く「議会は感性の集合体」。ひとりの県民として、ひとりの母親として、生まれ育った秋田と、未来ある子どもたちのためによりよい秋田を手渡せるようできる限りのことを精一杯頑張りたいと思います。

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寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。[…]

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寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。

 父の仕事の都合で小学校3年の夏に青森に引っ越し。その頃、祖父が増田町の町長選挙に出ることになり、母は秋田に手伝いへ。とても寂しかった思い出がある(この思い出が我が子と重なり、今回の決断を悩む原因でもあった)。
 小学校6年の冬に茨城に引っ越し。「転校生」と呼ばれても返事をせず、「もう1ヶ月も経つのに転校生と呼ぶな」と喧嘩したりして、気の強い少女時代だった。前の学校との教科書の違いにより、勉強していない部分を先生が毎朝補習をしてくれ、学力が落ちずにすんだ。本当に感謝。
 この間、両親の実家で、会社が倒産したり、借金の連帯保証人になったりしていたため、親戚が自己破産することになり、両親も建てた家を手放すことに。我が家自体はそれなりに平和ではあったものの、子ども心にも、経済的にあまり余裕がないことを感じつつ育った。

 中学校3年で横手市に戻り、横手南中学校に転校。マンモス校で、管理教育の側面が強く、それに合わず不登校に。11月から卒業までの5ヶ月登校しなかった。
 横手城南高校進学後は楽しく過ごしていたものの、進路指導などを通じ、再び学校生活に息苦しさを感じ高校3年の5月に中退。先生からは「大検に落ちたら戻ってきて。補習して同級生と一緒に卒業させてあげる」と言われる円満中退(?)であった。9月、大検に無事合格。現役の年はセンター試験のみ受けるもひどい点数だったので大学には出願しなかった。
 仙台市で浪人の1年を過ごし、1994年、育英会の奨学金をもらい早稲田大学に進学。心理学などを学んだ。不登校を卒論のテーマにしたいと思っていたが、当時、心理学で扱う不登校が「学校復帰」を軸にしたものが多いことに違和感があり、性格と疾病の関連をテーマに選んだ。そのことから精神医学に興味を持ち、医学部の学士入学試験に挑戦するが不合格。
 「浪人中は働け」との両親の指導の下、東京大学生産技術研究所に勤務。研究室で先生の補佐、留学生のケアなどにあたった。その間、不登校経験があったために興味を持った「フリースクールスタッフ養成研修・実習」に参加。終了後、実習先だったフリースクールジャパンフレネに週一度、東京シューレに1ヶ月、ボランティアスタッフとして勤務した。

 その折、大学生だった弟が倒れ植物状態に。2週間に一度秋田に戻り両親を支えるが、翌年、弟は旅立った。残された家族で一緒に暮らしたいと願い、仕事をやめて実家に戻った。
 弟を失ったことは、本当に大きな出来事で、今までの自分の歩みにすら向き合えなくなっていった。徐々に立ち直るなか、弟はもう何もすることができないのだから、やりたいことはなんでもやってみようと決意。今までテーマとしていた不登校、子どもに関わること以外で、自分が好きな海の環境に関することを仕事にしたいとの思いから、ハワイ大学の海洋科学部に学士入学。
 一時帰国中の2003年、父から言われ、初の衆議院選挙を迎えていた寺田の選挙を手伝わされた。「政治なんて本当は大嫌い」、「一刻も早く立ち去りたい」との思いが強かったが、同世代が集まり、真面目に地域や国を変えようと将来を語り合う雰囲気に徐々に引きこまれていった。当選後、興味がある教育や環境問題などに関われることに魅力を感じ、また、これまで社会を変える努力をせず、自分が出ていくことだけしか考えていなかった反省もあり、秘書となった(ハワイ大学は中退)。主に国会事務所にて、子ども子育て政策、男女共同参画、医療・環境分野などに興味を持ち、様々な勉強会に参加した。

 2009年9月、寺田と結婚。川口博衆議院議員公設秘書を経てベネッセの福武氏が音頭をとる電気自動車普及協会の立ち上げに参加させてもらう。その後、参議院議員となった義父の事務所を手伝った。
 夫落選中の2013年、諦めていた子どもを授かる。
 2014年、夫再選。育児に忙殺され過ごす。この間、英語を活かし、県内の友人の海外事業や取引をサポート。
 2019年、自ら政治に向き合うことを決めた。弟を失った時を境にして正面から向き合えなかった社会問題に、正直に、まっすぐ向き合おうと決意した。

 以上が私のこれまでの歩みです。
 自分自身でも平坦な半生ではないと感じていますが、その分、考えたことも多いと思っています。夫曰く「議会は感性の集合体」。ひとりの県民として、ひとりの母親として、生まれ育った秋田と、未来ある子どもたちのためによりよい秋田を手渡せるようできる限りのことを精一杯頑張りたいと思います。

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私が望む社会 私が望む社会

孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか 孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか

この問いは、私が取材を受けた本に載せられたもの。そしてこの言葉は、私が望む社会そのものです。
そう強く思うようになった私の経験をお話ししたいと思います。

全文を読む

 それは20年前に倒れ、亡くなった弟、茂之のこと。
 弟は大学の講義の最中に倒れ、そのまま意識が戻らず、いわゆる植物状態になり、1年3ヶ月の闘病の末亡くなった。弟は埼玉の大学に通っていたため、東京都内で働いていた私に母から連絡がきた。病院に着くとすぐに救急の担当医から説明。到着時には心肺停止状態。なんとか蘇生はしたものの、いつ急変してもおかしくない状態だと。追って上京した母と共に、昼は病院、夜は病院からの急変の連絡に怯えながら弟のアパートに帰る。そんな生活をして5日後、重い表情の担当医に呼ばれた。「一番危険な状態はなんとか脱した。が、意識が戻っていない。心停止で脳に血流がいかなかった時間が長く、大脳が不可逆的な変化を遂げてしまった。残念ながらこの先、茂之くんの意識の回復は望めないだろう」と。それ以降の言葉は覚えていない。隣に座る母の背中をさすりながら自分が泣き崩れてしまった。

 遷延性意識障害。そんな言葉を、弟のことがあって初めて知った。いわゆる植物状態のことだ。テレビで見ていると、植物状態というのはただ綺麗な顔で目を閉じて寝ている。が、実際、多くのケースはそうではない。少なくとも、弟には目を開いて宙を見つめ覚醒状態にあるときと、目を閉じて寝ているときがあった。あくびをして顎が外れ、元に戻してもらうまで数十分涙を流して苦しんだり、流動食を戻してしまったり、痰の吸引などに苦しそうに顔をしかめ声なき声でもがいたり。身体が硬直しないようにリハビリをしてもらうが、動くことのない身体はどんどん骨と皮だけになっていき、弟の脚は私の腕ぐらいの太さになった。脳幹という生命維持を司るところのそばにある聴覚は最後まで残っていて「音は聞こえているので話しかけてあげてくださいね」と言われる。事実、何か物を落としたりして大きな音がするとびくっと身体を震わせる。意識とはなんだろう。弟はあちら側に行ったわけでもなく、かといって呼びかけに答えてくれることもない。植物状態から奇跡的に回復したなどの話を聞き色々と調べてみたり、文献を取り寄せたりするが、その都度わかったことは、そうしたケースは交通事故などの頭部外傷の患者さんであり、弟のように心停止によって脳の全体に血流が途絶えたケースとは違っていた。調べれば調べるほど意識の回復は絶望的に思われ、語りかけをといわれても、弟の顔を見、骨と皮ばかりになった身体を見ては涙しか出てこなかった。父も、そうした現実と向き合うことが辛いのか、病院に寄り付かず、朝から晩まで病院で過ごす母と気持ちがすれ違うばかり。それぞれがそれぞれの悲しみで手一杯で、互いを思いやる余裕もなく、家族の気持ちがバラバラだった。

 母は、弟の容体が安定すると、自宅での介護を望み、痰の吸引の仕方や体位交換の仕方などを習っていった。とはいえ数時間おきのそうした処置やおむつの交換などを24時間つとめることは過酷で、在宅の間、母の体重は一時30キロ台になった。容体が急変してまた病院に戻ると、母が少し休めるとホッとした。母に一度、「意識がないのだから、そんなにずっと病院にいなくてもいいのでは?」と言った。母まで倒れてしまうと心配だったからだ。でも、母は「もしも一瞬だけ意識が戻って、その時に(家族が誰も)いなかったら?」と言った。なんと残酷なことを母に言ってしまったのか。当時の私は、母の気持ちに十分に寄り添うことができていなかった。そのことを今でも後悔している。
 母は、弟の状態が永続だと認めたくないこともあり、障害者手帳の交付などを一時拒んだ。在宅のベッドや痰の吸引器具など、補助を申請しても、なかなか適応にならないことも多かった。「死ぬことなどないだろう」そう思って19歳の弟にかけられていた保険から、死亡・高度障害時の一時金が支給された。入院費や在宅での看護介護の費用に消えていった。
 弟は、こうして病院や在宅での看護、介護の末、徐々に全身の臓器の状態が悪化し、1年3ヶ月の闘病ののちに亡くなった。最期は臓器からの出血が止まらず、苦しそうな下顎呼吸を繰り返した。「もうたくさん頑張った。もういいんだよ。ありがとう」家族で泣きながら声をかけ、病院のベッドで息を引き取った。父の涙を見たのはその時一度きりで、きっとこれからもないだろう。

 医療が発達し、弟のように、命は助かっても意識が戻らないケースが増えているという。弟の死から10年以上経ち、何かで弟のことを知った河北新報社から取材を受けた。遷延性意識障害の患者家族の特集をしていたのだった。後にその特集は一冊の本にまとめられ、その帯に書かれていたのが冒頭の問い。

 「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか」

 今この瞬間も、介護と看護に明け暮れ、もしかしたら病院や行政の対応、制度や法律の不備に苦しみ、しかし声を上げる気力も体力もなく苦しんでいる方があることを知っている。子育てに追われる日々のなか、私の母のように、自分より遥かに若い子どもの介護や看護に苦心し、親亡き後の子どもの行く末を思い悩んでいるたくさんの人たちがいる。こうしたケアワークは、特に家庭では、担い手は女性である場合がまだ多い。

 弟を亡くしてから、こうした現実があることを知りつつも、弟のことを忘れたいがために仕事に没頭してきました。このことに今も罪悪感を覚えながら、この現実と悩みの切実さを知るひとりの女性として、そうした声なき声の代弁者であれたらと強く願い、今回、自分自身が政治に向き合う決意をしました。

 「個人的なことは政治的なこと」。政治に向き合うことを決めたときに友人から贈られたこの言葉を噛み締めながら歩みたいと思います。

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「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、
99人が配慮する社会は作れないのか」[…]

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孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか 孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか

この問いは、私が取材を受けた本に載せられたもの。そしてこの言葉は、私が望む社会そのものです。
そう強く思うようになった私の経験をお話ししたいと思います。

 それは20年前に倒れ、亡くなった弟、茂之のこと。
 弟は大学の講義の最中に倒れ、そのまま意識が戻らず、いわゆる植物状態になり、1年3ヶ月の闘病の末亡くなった。弟は埼玉の大学に通っていたため、東京都内で働いていた私に母から連絡がきた。病院に着くとすぐに救急の担当医から説明。到着時には心肺停止状態。なんとか蘇生はしたものの、いつ急変してもおかしくない状態だと。追って上京した母と共に、昼は病院、夜は病院からの急変の連絡に怯えながら弟のアパートに帰る。そんな生活をして5日後、重い表情の担当医に呼ばれた。「一番危険な状態はなんとか脱した。が、意識が戻っていない。心停止で脳に血流がいかなかった時間が長く、大脳が不可逆的な変化を遂げてしまった。残念ながらこの先、茂之くんの意識の回復は望めないだろう」と。それ以降の言葉は覚えていない。隣に座る母の背中をさすりながら自分が泣き崩れてしまった。

 遷延性意識障害。そんな言葉を、弟のことがあって初めて知った。いわゆる植物状態のことだ。テレビで見ていると、植物状態というのはただ綺麗な顔で目を閉じて寝ている。が、実際、多くのケースはそうではない。少なくとも、弟には目を開いて宙を見つめ覚醒状態にあるときと、目を閉じて寝ているときがあった。あくびをして顎が外れ、元に戻してもらうまで数十分涙を流して苦しんだり、流動食を戻してしまったり、痰の吸引などに苦しそうに顔をしかめ声なき声でもがいたり。身体が硬直しないようにリハビリをしてもらうが、動くことのない身体はどんどん骨と皮だけになっていき、弟の脚は私の腕ぐらいの太さになった。脳幹という生命維持を司るところのそばにある聴覚は最後まで残っていて「音は聞こえているので話しかけてあげてくださいね」と言われる。事実、何か物を落としたりして大きな音がするとびくっと身体を震わせる。意識とはなんだろう。弟はあちら側に行ったわけでもなく、かといって呼びかけに答えてくれることもない。植物状態から奇跡的に回復したなどの話を聞き色々と調べてみたり、文献を取り寄せたりするが、その都度わかったことは、そうしたケースは交通事故などの頭部外傷の患者さんであり、弟のように心停止によって脳の全体に血流が途絶えたケースとは違っていた。調べれば調べるほど意識の回復は絶望的に思われ、語りかけをといわれても、弟の顔を見、骨と皮ばかりになった身体を見ては涙しか出てこなかった。父も、そうした現実と向き合うことが辛いのか、病院に寄り付かず、朝から晩まで病院で過ごす母と気持ちがすれ違うばかり。それぞれがそれぞれの悲しみで手一杯で、互いを思いやる余裕もなく、家族の気持ちがバラバラだった。

 母は、弟の容体が安定すると、自宅での介護を望み、痰の吸引の仕方や体位交換の仕方などを習っていった。とはいえ数時間おきのそうした処置やおむつの交換などを24時間つとめることは過酷で、在宅の間、母の体重は一時30キロ台になった。容体が急変してまた病院に戻ると、母が少し休めるとホッとした。母に一度、「意識がないのだから、そんなにずっと病院にいなくてもいいのでは?」と言った。母まで倒れてしまうと心配だったからだ。でも、母は「もしも一瞬だけ意識が戻って、その時に(家族が誰も)いなかったら?」と言った。なんと残酷なことを母に言ってしまったのか。当時の私は、母の気持ちに十分に寄り添うことができていなかった。そのことを今でも後悔している。
 母は、弟の状態が永続だと認めたくないこともあり、障害者手帳の交付などを一時拒んだ。在宅のベッドや痰の吸引器具など、補助を申請しても、なかなか適応にならないことも多かった。「死ぬことなどないだろう」そう思って19歳の弟にかけられていた保険から、死亡・高度障害時の一時金が支給された。入院費や在宅での看護介護の費用に消えていった。
 弟は、こうして病院や在宅での看護、介護の末、徐々に全身の臓器の状態が悪化し、1年3ヶ月の闘病ののちに亡くなった。最期は臓器からの出血が止まらず、苦しそうな下顎呼吸を繰り返した。「もうたくさん頑張った。もういいんだよ。ありがとう」家族で泣きながら声をかけ、病院のベッドで息を引き取った。父の涙を見たのはその時一度きりで、きっとこれからもないだろう。

 医療が発達し、弟のように、命は助かっても意識が戻らないケースが増えているという。弟の死から10年以上経ち、何かで弟のことを知った河北新報社から取材を受けた。遷延性意識障害の患者家族の特集をしていたのだった。後にその特集は一冊の本にまとめられ、その帯に書かれていたのが冒頭の問い。

 「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか」

 今この瞬間も、介護と看護に明け暮れ、もしかしたら病院や行政の対応、制度や法律の不備に苦しみ、しかし声を上げる気力も体力もなく苦しんでいる方があることを知っている。子育てに追われる日々のなか、私の母のように、自分より遥かに若い子どもの介護や看護に苦心し、親亡き後の子どもの行く末を思い悩んでいるたくさんの人たちがいる。こうしたケアワークは、特に家庭では、担い手は女性である場合がまだ多い。

 弟を亡くしてから、こうした現実があることを知りつつも、弟のことを忘れたいがために仕事に没頭してきました。このことに今も罪悪感を覚えながら、この現実と悩みの切実さを知るひとりの女性として、そうした声なき声の代弁者であれたらと強く願い、今回、自分自身が政治に向き合う決意をしました。

 「個人的なことは政治的なこと」。政治に向き合うことを決めたときに友人から贈られたこの言葉を噛み締めながら歩みたいと思います。

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私が頑張ること みんなが参加できる社会に

 「仕事と子育ての両立はどうするのですか?」
 当選後、多くの取材を受ける中で、必ず聞かれた問いです。確かに6歳(当時)の息子を抱える身としては大きな課題ではあるものの、これは私が女性であるから問われることであって、男性議員であれば聞かれなかった質問なのだと思います。まだ子育ては女性が主にするもの、という社会的な役割分担意識が強いことを感じさせられる出来事でした。

全文を読む

 そして、今回の選挙では、舩後さん、木村さんという重度障がいを持つお二人が当選をされました。また、お隣の岩手では、車椅子を使用されている横沢さんも当選をされています。国会の中に3人のお姿があることそれ自体が、障がいを持つ皆さんにとっては大きな希望になったと感じます。また、重度障がいのお二人が働くために、勤務中は介護サービスが利用できないことが広く知られることとなり、当事者の方たちがこれまで困っていながら大きく取り上げられてこなかった問題に光が当たることになりました。ただその反面、「障がい者に仕事ができるのか」との指摘が、少なからず寄せられました。
 「子育て中なのに」、「障がい者なのに」。そのような、国会議員として「普通」じゃない背景をもった議員が誕生したことが注目を浴びることになったのだと思います。
 ここ数年、特に子どもが生まれてから、この日本の停滞が生まれたのは、「家庭を顧みずに働ける健康な男性」を中心に全てを回してきたからだと私は感じてきました。そこから排除されてきた、女性であったり、障がい者であったり、自身や家族の健康等の理由から職場を去らなければならなかった人たちの視点は、社会に還元されずにきました。そのことが、いま様々な問題をもたらしているのではないでしょうか。その人たちが活躍するための仕組みや制度は整えられず、その人たちの視点が活かされていたら生まれていたはずの商品やサービスは誕生することなく、結果として今の停滞を生んだのではないかと。街も建物も交通機関も、少しずつ改善されてきているとはいえ、基本的には健常者を前提に作られていて、障がいがある人や、足腰が不自由になった人、ベビーカーを押す人たちが楽に移動できるようになってはいません。法律やそれに付随する制度も、多様な私たちの人生やライフステージに対応してはくれない。そのような国のあり方が、どんよりと社会を覆う閉塞感を作り上げていると感じます。
 その問題意識を抱えて、議員になって誓ったこと。それは、私自身が子育てというライフステージに伴う大変さを決して忘れないこと。この夏、私を応援してくださった方は、生活者としての目線や、主婦としての感覚、育児真っ最中の私の視点に期待をしてくださったのだろうと思います。それなのに「国会議員になったから」「やりがいがあるから」と、私が誰かに子どもを預けっぱなしにして仕事だけをして、これらのことを忘れてしまったら、私が議員である意味が失われてしまうと感じます。
 私は、私に託された時間と立場を、放っておいたら弱い立場に追い込まれる人たち、経済原則に任せていたら守られないもののために、懸命に働いていきたいと思います。具体的には、子どもであり、女性であり、障がい者であり、様々な理由から少数者と呼ばれる方たちであり、また、秋田に象徴される疲弊する地方であり、どんどん苦しくなる農家であり、動植物や自然、そして平和であろうと思います。
 この国に住む誰もが、一人ひとり自分の価値観に沿って、自由に人生を歩む中で、困難にあたったときにはそれぞれに支援がある。そのことが実現されて初めて、誰もが安心して暮らせる社会となり、国全体としても良い方向に循環していくと私は信じています。
 そのために、人生の途上でぶつかる障がいや苦労、制度の狭間で行き場を失った問題を一つひとつ丁寧に解決していきたい。今は大丈夫な人でも、明日には事故、病気、あるいは災害で困難を抱えるかもしれません。運良く年齢を重ねるまで健康であったとしても、人生の晩年には、誰もが少しずつ足腰が悪くなったり、耳が遠くなったり、認知症を患ったり、不自由を抱えていきます。明日はどうなるかわからない私たち全員の未来のために、頑張りたい。引き続き皆さんからお声を伺いながら、授けて頂いた6年間という任期と立場をしっかりとまっとうしていくことを誓い、国会に足を踏み入れました。
 不安になることもあるかもしれません。でも、「普通」の感覚を持った人が政治の場に少ないからいけないのだ、そのような思いで皆さんが私を押し上げてくださったのであれば、私にも果たすべき役割があると自らを鼓舞しています。育児も家事も全部人任せにして仕事にだけに専念できた人たちが主に政治をしてきた結果が、今の社会なのですから。
 驕ることなく、心の根には強い自信と責任感をもって、皆さまの期待に添えるよう努力を重ねて参ります!

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私が頑張ること

「仕事と子育ての両立はどうするのですか?」
当選後、多くの取材を受ける中で、 […]

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みんなが参加できる社会に
私が頑張ること

 「仕事と子育ての両立はどうするのですか?」
 当選後、多くの取材を受ける中で、必ず聞かれた問いです。確かに6歳(当時)の息子を抱える身としては大きな課題ではあるものの、これは私が女性であるから問われることであって、男性議員であれば聞かれなかった質問なのだと思います。まだ子育ては女性が主にするもの、という社会的な役割分担意識が強いことを感じさせられる出来事でした。
 そして、今回の選挙では、舩後さん、木村さんという重度障がいを持つお二人が当選をされました。また、お隣の岩手では、車椅子を使用されている横沢さんも当選をされています。国会の中に3人のお姿があることそれ自体が、障がいを持つ皆さんにとっては大きな希望になったと感じます。また、重度障がいのお二人が働くために、勤務中は介護サービスが利用できないことが広く知られることとなり、当事者の方たちがこれまで困っていながら大きく取り上げられてこなかった問題に光が当たることになりました。ただその反面、「障がい者に仕事ができるのか」との指摘が、少なからず寄せられました。
 「子育て中なのに」、「障がい者なのに」。そのような、国会議員として「普通」じゃない背景をもった議員が誕生したことが注目を浴びることになったのだと思います。
 ここ数年、特に子どもが生まれてから、この日本の停滞が生まれたのは、「家庭を顧みずに働ける健康な男性」を中心に全てを回してきたからだと私は感じてきました。そこから排除されてきた、女性であったり、障がい者であったり、自身や家族の健康等の理由から職場を去らなければならなかった人たちの視点は、社会に還元されずにきました。そのことが、いま様々な問題をもたらしているのではないでしょうか。その人たちが活躍するための仕組みや制度は整えられず、その人たちの視点が活かされていたら生まれていたはずの商品やサービスは誕生することなく、結果として今の停滞を生んだのではないかと。街も建物も交通機関も、少しずつ改善されてきているとはいえ、基本的には健常者を前提に作られていて、障がいがある人や、足腰が不自由になった人、ベビーカーを押す人たちが楽に移動できるようになってはいません。法律やそれに付随する制度も、多様な私たちの人生やライフステージに対応してはくれない。そのような国のあり方が、どんよりと社会を覆う閉塞感を作り上げていると感じます。
 その問題意識を抱えて、議員になって誓ったこと。それは、私自身が子育てというライフステージに伴う大変さを決して忘れないこと。この夏、私を応援してくださった方は、生活者としての目線や、主婦としての感覚、育児真っ最中の私の視点に期待をしてくださったのだろうと思います。それなのに「国会議員になったから」「やりがいがあるから」と、私が誰かに子どもを預けっぱなしにして仕事だけをして、これらのことを忘れてしまったら、私が議員である意味が失われてしまうと感じます。
 私は、私に託された時間と立場を、放っておいたら弱い立場に追い込まれる人たち、経済原則に任せていたら守られないもののために、懸命に働いていきたいと思います。具体的には、子どもであり、女性であり、障がい者であり、様々な理由から少数者と呼ばれる方たちであり、また、秋田に象徴される疲弊する地方であり、どんどん苦しくなる農家であり、動植物や自然、そして平和であろうと思います。
 この国に住む誰もが、一人ひとり自分の価値観に沿って、自由に人生を歩む中で、困難にあたったときにはそれぞれに支援がある。そのことが実現されて初めて、誰もが安心して暮らせる社会となり、国全体としても良い方向に循環していくと私は信じています。
 そのために、人生の途上でぶつかる障がいや苦労、制度の狭間で行き場を失った問題を一つひとつ丁寧に解決していきたい。今は大丈夫な人でも、明日には事故、病気、あるいは災害で困難を抱えるかもしれません。運良く年齢を重ねるまで健康であったとしても、人生の晩年には、誰もが少しずつ足腰が悪くなったり、耳が遠くなったり、認知症を患ったり、不自由を抱えていきます。明日はどうなるかわからない私たち全員の未来のために、頑張りたい。引き続き皆さんからお声を伺いながら、授けて頂いた6年間という任期と立場をしっかりとまっとうしていくことを誓い、国会に足を踏み入れました。
 不安になることもあるかもしれません。でも、「普通」の感覚を持った人が政治の場に少ないからいけないのだ、そのような思いで皆さんが私を押し上げてくださったのであれば、私にも果たすべき役割があると自らを鼓舞しています。育児も家事も全部人任せにして仕事にだけに専念できた人たちが主に政治をしてきた結果が、今の社会なのですから。
 驕ることなく、心の根には強い自信と責任感をもって、皆さまの期待に添えるよう努力を重ねて参ります!

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大人も子どもも高齢者も障害者も、みんなが共に笑って生きられる社会。 大人も子どもも高齢者も障害者も、みんなが共に笑って生きられる社会。

ひとりの県民として

生まれ育った秋田の美しい大自然とそれがもたらす数々の新鮮な恵み。この豊かさを享受しつつ、幸せに年を重ねるために必要なものをひとつひとつ積み上げていく。リタイヤ世代が安心して生活できる毎日が、若い世代の希望にもつながります。

ひとりの母親として

育児や子育ての苦労、その間の経済的な悩み。安心して楽しく子育てができる秋田のために、必要なもの、不要なものがあります。秋田の持つ良さをこれからの世代にしっかりと引き継いでいくためにできることを、家庭を営む女性の視点から取り組みます。

小さな声を集め、大きな不安と闘っていく。 小さな声を集め、大きな不安と闘っていく。

悲しい事故や自死、介護を苦にした事件などは一人ひとりが胸にしまいこみ、忘れ去られ、その原因となったことは一向に改善されない。こうした社会は誰も望んでいないはずです。弱い立場の人を考えれば、答えは見えてくる。一つひとつの小さな声がしっかり届く豊かな社会を目指します。

私の考える政策

年金・医療・介護

誰もが安心して年を重ねることができるよう、持続的な年金制度への改革を急ぎます。医療、介護従事者の待遇改善をし、制度の見直しによって隙間のない医療・介護体制の構築を目指します。

地域経済

秋田経済のけん引役である中小企業が個性や可能性を存分に伸ばすことができるよう、社会保険料負担の軽減により正規雇用を増やし、事業承継政策の拡充により事業の継続を支援します。

子育て・教育

保育・教育・社会的養護の各分野を底上げし、社会全体で全ての子どもの育ちを支援します。高等教育の無償化・奨学金の拡充によって子ども達の可能性を広げます。

憲法

改憲をすること自体が目的と化している現政権下での議論には強い危機感を覚えます。地方分権等に関する改憲議論はなされてもよいと考えますが、9条の改正は必要ありません。

農林水産業

自民党政権下で廃止された戸別所得補償制度を復活、6次産業化などで特色ある取り組みを支援し、秋田の誇る農林水産業を支え、緑豊かな秋田の食と地域の安心を守ります。

若者・女性・少数者

若者や女性、マイノリティーとされる方々を含め、皆が秋田で自らが思い描く人生を歩めるよう、新しい時代の価値観に寛容な社会を作ります。地方議会や国会でも若者や女性が活躍できるよう連携します。

エネルギー

東日本大震災の教訓を忘れず、再生可能エネルギーや省エネ等の技術開発の促進によって、原発に頼らない電力確保を実現します。

環境・動物愛護

暮らしに大きな影響を及ぼす気候変動対策や生物多様性の保全、動物愛護、動物福祉などの課題に取り組みます。子どもたち世代により良い秋田、日本、地球を残します。

しずか後援会

ご入会のお願い

しずか後援会では、現在、後援会員を募集しています。
一緒に、安心な暮らしが何より大切にされる社会をつくりましょう。
また、ご家族・ご友人などもご紹介いただけましたら幸いです。

お電話からのご入会

下記番号へお電話いただき、
お名前・ご住所・お電話番号を
お伝えください。

018-853-9226

< 受付時間 / 平日10時〜17時 >

FAXからのご入会

お申込用紙(PDF)を印刷いただき、
必要事項をご記入の上、
下記FAX番号へお送りください。

FAX番号:018-853-9227

PROFILE

寺田 静 /てらた しずか

1975(昭和50)年、横手市生まれ。
横手城南高校中退後、大検取得、育英会の奨学金を受け早稲田大学入学。
卒業後、東京大学生産技術研究所勤務。米国留学後、寺田学や川口博両衆議院議員らの公設秘書、電気自動車普及協会を経て、2019(令和元)年参議院議員選挙秋田県選挙区初当選。 参議院農林水産委員会委員。児童虐待から子どもを守る議員の会、インクルーシブ雇用議連、LGBT議連、自殺対策推進議連、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)議連、フリースクール推進議連、ママパパ議連、動物愛護議連などに所属。全ての子どもの育ちと学び、ジェンダーギャップの是正、里親委託の推進、環境問題、地方が抱える課題等に取り組む。
夫と息子(小学生)の3人家族。

詳しいプロフィールは「私自身について」をご覧ください。

秋田事務所

〒010-1424
秋田市御野場1-1-9
TEL/018-853-9226
FAX/018-853-9227

国会事務所

〒100-8962
東京都千代田区永田町2-1-1
参議院議員会館204号室
TEL/03-6550-0204
FAX/03-6551-0204

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