孤絶する1人、苦しむ1家族のために、
99人が配慮する社会は作れないのか。
私自身について、そして、
なぜ政治の世界に飛び込んだのか、
どんな社会を目指しているのか、
今の偽らざる想いをまとめました。
是非、ご一読いただけましたら幸いです。
寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。[…]
寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。
父の仕事の都合で小学校3年の夏に青森に引っ越し。その頃、祖父が増田町の町長選挙に出ることになり、母は秋田に手伝いへ。とても寂しかった思い出がある(この思い出が我が子と重なり、今回の決断を悩む原因でもあった)。
小学校6年の冬に茨城に引っ越し。「転校生」と呼ばれても返事をせず、「もう1ヶ月も経つのに転校生と呼ぶな」と喧嘩したりして、気の強い少女時代だった。前の学校との教科書の違いにより、勉強していない部分を先生が毎朝補習をしてくれ、学力が落ちずにすんだ。本当に感謝。
この間、両親の実家で、会社が倒産したり、借金の連帯保証人になったりしていたため、親戚が自己破産することになり、両親も建てた家を手放すことに。我が家自体はそれなりに平和ではあったものの、子ども心にも、経済的にあまり余裕がないことを感じつつ育った。
中学校3年で横手市に戻り、横手南中学校に転校。マンモス校で、管理教育の側面が強く、それに合わず不登校に。11月から卒業までの5ヶ月登校しなかった。
横手城南高校進学後は楽しく過ごしていたものの、進路指導などを通じ、再び学校生活に息苦しさを感じ高校3年の5月に中退。先生からは「大検に落ちたら戻ってきて。補習して同級生と一緒に卒業させてあげる」と言われる円満中退(?)であった。9月、大検に無事合格。現役の年はセンター試験のみ受けるもひどい点数だったので大学には出願しなかった。
仙台市で浪人の1年を過ごし、1994年、育英会の奨学金をもらい早稲田大学に進学。心理学などを学んだ。不登校を卒論のテーマにしたいと思っていたが、当時、心理学で扱う不登校が「学校復帰」を軸にしたものが多いことに違和感があり、性格と疾病の関連をテーマに選んだ。そのことから精神医学に興味を持ち、医学部の学士入学試験に挑戦するが不合格。
「浪人中は働け」との両親の指導の下、東京大学生産技術研究所に勤務。研究室で先生の補佐、留学生のケアなどにあたった。その間、不登校経験があったために興味を持った「フリースクールスタッフ養成研修・実習」に参加。終了後、実習先だったフリースクールジャパンフレネに週一度、東京シューレに1ヶ月、ボランティアスタッフとして勤務した。
その折、大学生だった弟が倒れ植物状態に。2週間に一度秋田に戻り両親を支えるが、翌年、弟は旅立った。残された家族で一緒に暮らしたいと願い、仕事をやめて実家に戻った。
弟を失ったことは、本当に大きな出来事で、今までの自分の歩みにすら向き合えなくなっていった。徐々に立ち直るなか、弟はもう何もすることができないのだから、やりたいことはなんでもやってみようと決意。今までテーマとしていた不登校、子どもに関わること以外で、自分が好きな海の環境に関することを仕事にしたいとの思いから、ハワイ大学の海洋科学部に学士入学。
一時帰国中の2003年、父から言われ、初の衆議院選挙を迎えていた寺田の選挙を手伝わされた。「政治なんて本当は大嫌い」、「一刻も早く立ち去りたい」との思いが強かったが、同世代が集まり、真面目に地域や国を変えようと将来を語り合う雰囲気に徐々に引きこまれていった。当選後、興味がある教育や環境問題などに関われることに魅力を感じ、また、これまで社会を変える努力をせず、自分が出ていくことだけしか考えていなかった反省もあり、秘書となった(ハワイ大学は中退)。主に国会事務所にて、子ども子育て政策、男女共同参画、医療・環境分野などに興味を持ち、様々な勉強会に参加した。
2009年9月、寺田と結婚。川口博衆議院議員公設秘書を経てベネッセの福武氏が音頭をとる電気自動車普及協会の立ち上げに参加させてもらう。その後、参議院議員となった義父の事務所を手伝った。
夫落選中の2013年、諦めていた子どもを授かる。
2014年、夫再選。育児に忙殺され過ごす。この間、英語を活かし、県内の友人の海外事業や取引をサポート。
2019年、自ら政治に向き合うことを決めた。弟を失った時を境にして正面から向き合えなかった社会問題に、正直に、まっすぐ向き合おうと決意した。
以上が私のこれまでの歩みです。
自分自身でも平坦な半生ではないと感じていますが、その分、考えたことも多いと思っています。夫曰く「議会は感性の集合体」。ひとりの県民として、ひとりの母親として、生まれ育った秋田と、未来ある子どもたちのためによりよい秋田を手渡せるようできる限りのことを精一杯頑張りたいと思います。
「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、
99人が配慮する社会は作れないのか」[…]
この問いは、私が取材を受けた本に載せられたもの。そしてこの言葉は、私が望む社会そのものです。
そう強く思うようになった私の経験をお話ししたいと思います。
それは20年前に倒れ、亡くなった弟、茂之のこと。
弟は大学の講義の最中に倒れ、そのまま意識が戻らず、いわゆる植物状態になり、1年3ヶ月の闘病の末亡くなった。弟は埼玉の大学に通っていたため、東京都内で働いていた私に母から連絡がきた。病院に着くとすぐに救急の担当医から説明。到着時には心肺停止状態。なんとか蘇生はしたものの、いつ急変してもおかしくない状態だと。追って上京した母と共に、昼は病院、夜は病院からの急変の連絡に怯えながら弟のアパートに帰る。そんな生活をして5日後、重い表情の担当医に呼ばれた。「一番危険な状態はなんとか脱した。が、意識が戻っていない。心停止で脳に血流がいかなかった時間が長く、大脳が不可逆的な変化を遂げてしまった。残念ながらこの先、茂之くんの意識の回復は望めないだろう」と。それ以降の言葉は覚えていない。隣に座る母の背中をさすりながら自分が泣き崩れてしまった。
遷延性意識障害。そんな言葉を、弟のことがあって初めて知った。いわゆる植物状態のことだ。テレビで見ていると、植物状態というのはただ綺麗な顔で目を閉じて寝ている。が、実際、多くのケースはそうではない。少なくとも、弟には目を開いて宙を見つめ覚醒状態にあるときと、目を閉じて寝ているときがあった。あくびをして顎が外れ、元に戻してもらうまで数十分涙を流して苦しんだり、流動食を戻してしまったり、痰の吸引などに苦しそうに顔をしかめ声なき声でもがいたり。身体が硬直しないようにリハビリをしてもらうが、動くことのない身体はどんどん骨と皮だけになっていき、弟の脚は私の腕ぐらいの太さになった。脳幹という生命維持を司るところのそばにある聴覚は最後まで残っていて「音は聞こえているので話しかけてあげてくださいね」と言われる。事実、何か物を落としたりして大きな音がするとびくっと身体を震わせる。意識とはなんだろう。弟はあちら側に行ったわけでもなく、かといって呼びかけに答えてくれることもない。植物状態から奇跡的に回復したなどの話を聞き色々と調べてみたり、文献を取り寄せたりするが、その都度わかったことは、そうしたケースは交通事故などの頭部外傷の患者さんであり、弟のように心停止によって脳の全体に血流が途絶えたケースとは違っていた。調べれば調べるほど意識の回復は絶望的に思われ、語りかけをといわれても、弟の顔を見、骨と皮ばかりになった身体を見ては涙しか出てこなかった。父も、そうした現実と向き合うことが辛いのか、病院に寄り付かず、朝から晩まで病院で過ごす母と気持ちがすれ違うばかり。それぞれがそれぞれの悲しみで手一杯で、互いを思いやる余裕もなく、家族の気持ちがバラバラだった。
母は、弟の容体が安定すると、自宅での介護を望み、痰の吸引の仕方や体位交換の仕方などを習っていった。とはいえ数時間おきのそうした処置やおむつの交換などを24時間つとめることは過酷で、在宅の間、母の体重は一時30キロ台になった。容体が急変してまた病院に戻ると、母が少し休めるとホッとした。母に一度、「意識がないのだから、そんなにずっと病院にいなくてもいいのでは?」と言った。母まで倒れてしまうと心配だったからだ。でも、母は「もしも一瞬だけ意識が戻って、その時に(家族が誰も)いなかったら?」と言った。なんと残酷なことを母に言ってしまったのか。当時の私は、母の気持ちに十分に寄り添うことができていなかった。そのことを今でも後悔している。
母は、弟の状態が永続だと認めたくないこともあり、障害者手帳の交付などを一時拒んだ。在宅のベッドや痰の吸引器具など、補助を申請しても、なかなか適応にならないことも多かった。「死ぬことなどないだろう」そう思って19歳の弟にかけられていた保険から、死亡・高度障害時の一時金が支給された。入院費や在宅での看護介護の費用に消えていった。
弟は、こうして病院や在宅での看護、介護の末、徐々に全身の臓器の状態が悪化し、1年3ヶ月の闘病ののちに亡くなった。最期は臓器からの出血が止まらず、苦しそうな下顎呼吸を繰り返した。「もうたくさん頑張った。もういいんだよ。ありがとう」家族で泣きながら声をかけ、病院のベッドで息を引き取った。父の涙を見たのはその時一度きりで、きっとこれからもないだろう。
医療が発達し、弟のように、命は助かっても意識が戻らないケースが増えているという。弟の死から10年以上経ち、何かで弟のことを知った河北新報社から取材を受けた。遷延性意識障害の患者家族の特集をしていたのだった。後にその特集は一冊の本にまとめられ、その帯に書かれていたのが冒頭の問い。
「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか」
今この瞬間も、介護と看護に明け暮れ、もしかしたら病院や行政の対応、制度や法律の不備に苦しみ、しかし声を上げる気力も体力もなく苦しんでいる方があることを知っている。子育てに追われる日々のなか、私の母のように、自分より遥かに若い子どもの介護や看護に苦心し、親亡き後の子どもの行く末を思い悩んでいるたくさんの人たちがいる。こうしたケアワークは、特に家庭では、担い手は女性である場合がまだ多い。
弟を亡くしてから、こうした現実があることを知りつつも、弟のことを忘れたいがために仕事に没頭してきました。このことに今も罪悪感を覚えながら、この現実と悩みの切実さを知るひとりの女性として、そうした声なき声の代弁者であれたらと強く願い、今回、自分自身が政治に向き合う決意をしました。
「個人的なことは政治的なこと」。政治に向き合うことを決めたときに友人から贈られたこの言葉を噛み締めながら歩みたいと思います。
生まれ育った秋田の美しい大自然とそれがもたらす数々の新鮮な恵み。この豊かさを享受しつつ、幸せに年を重ねるために必要なものをひとつひとつ積み上げていく。リタイヤ世代が安心して生活できる毎日が、若い世代の希望にもつながります。
育児や子育ての苦労、その間の経済的な悩み。安心して楽しく子育てができる秋田のために、必要なもの、不要なものがあります。秋田の持つ良さをこれからの世代にしっかりと引き継いでいくためにできることを、家庭を営む女性の視点から取り組みます。
悲しい事故や自死、介護を苦にした事件などは一人ひとりが胸にしまいこみ、忘れ去られ、その原因となったことは一向に改善されない。こうした社会は誰も望んでいないはずです。弱い立場の人を考えれば、答えは見えてくる。一つひとつの小さな声がしっかり届く豊かな社会を目指します。
誰もが安心して年を重ねることができるよう、持続的な年金制度への改革を急ぎます。医療、介護従事者の待遇改善をし、制度の見直しによって隙間のない医療・介護体制の構築を目指します。
秋田経済のけん引役である中小企業が個性や可能性を存分に伸ばすことができるよう、社会保険料負担の軽減により正規雇用を増やし、事業承継政策の拡充により事業の継続を支援します。
保育・教育・社会的養護の各分野を底上げし、社会全体で全ての子どもの育ちを支援します。高等教育の無償化・奨学金の拡充によって子ども達の可能性を広げます。
改憲をすること自体が目的と化している現政権下での議論には強い危機感を覚えます。地方分権等に関する改憲議論はなされてもよいと考えますが、9条の改正は必要ありません。
自民党政権下で廃止された戸別所得補償制度を復活、6次産業化などで特色ある取り組みを支援し、秋田の誇る農林水産業を支え、緑豊かな秋田の食と地域の安心を守ります。
若者や女性、マイノリティーとされる方々を含め、皆が秋田で自らが思い描く人生を歩めるよう、新しい時代の価値観に寛容な社会を作ります。地方議会や国会でも若者や女性が活躍できるよう連携します。
東日本大震災の教訓を忘れず、再生可能エネルギーや省エネ等の技術開発の促進によって、原発に頼らない電力確保を実現します。
暮らしに大きな影響を及ぼす気候変動対策や生物多様性の保全、動物愛護、動物福祉などの課題に取り組みます。子どもたち世代により良い秋田、日本、地球を残します。
しずか後援会では、現在、後援会員を募集しています。
一緒に、安心な暮らしが何より大切にされる社会をつくりましょう。
また、ご家族・ご友人などもご紹介いただけましたら幸いです。
下記番号へお電話いただき、
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< 受付時間 / 平日10時〜17時 >
/てらた しずか
1975(昭和50)年、横手市生まれ。
横手城南高校中退後、大検取得、育英会の奨学金を受け早稲田大学入学。
卒業後、東京大学生産技術研究所勤務。米国留学後、寺田学や川口博両衆議院議員らの公設秘書、電気自動車普及協会を経て、2019(令和元)年参議院議員選挙秋田県選挙区初当選。
参議院農林水産委員会委員。児童虐待から子どもを守る議員の会、インクルーシブ雇用議連、LGBT議連、自殺対策推進議連、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)議連、フリースクール推進議連、ママパパ議連、動物愛護議連などに所属。全ての子どもの育ちと学び、ジェンダーギャップの是正、里親委託の推進、環境問題、地方が抱える課題等に取り組む。
夫と息子(小学生)の3人家族。
詳しいプロフィールは「私自身について」をご覧ください。