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街頭演説
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安心な暮らしほど大切な未来なんてない。 安心な暮らしほど大切な未来なんてない。

高齢者が不安を抱えている街を、幸せな街だと言えるだろうか。
      子どもを安心して育てられない地域に、確かな未来はあるだろうか。
      20年前、突然弟が倒れ、植物状態を経て亡くなった経験から、
      介護や看護に明け暮れる人々の苦しみを知った。
      「子育てに没頭していたら、いつの間にか原発がたくさんできていた」
      と悔やむ実家の母の言葉を聞いて、今やらなければ、いつか子どものために後悔すると思った。
      地域が高齢化し、農家は厳しい状況におかれ、イージス・アショアの候補地となっている秋田。
      介護の問題は、いつも女性が負わされ、防衛やエネルギー政策の問題は、子どもたちに降りかかる。
      政治は、誰のためにあるのだろう。
      本当に助けるべき人を考えれば、答えは自ずと見えてくる。
      ひとりの母親として、ひとりの県民として、生まれ育った秋田を守りたい。
      子どもから高齢者まで、すべての世代を包み込み、つなげていくような社会を作りたい。
      あたりまえに安心して暮らせる毎日こそ、豊かな未来を育てていくと思うから。 高齢者が不安を抱えている街を、幸せな街だと言えるだろうか。
      子どもを安心して育てられない地域に、確かな未来はあるだろうか。
      20年前、突然弟が倒れ、植物状態を経て亡くなった経験から、
      介護や看護に明け暮れる人々の苦しみを知った。
      「子育てに没頭していたら、いつの間にか原発がたくさんできていた」
      と悔やむ実家の母の言葉を聞いて、今やらなければ、いつか子どものために後悔すると思った。
      地域が高齢化し、農家は厳しい状況におかれ、イージス・アショアの候補地となっている秋田。
      介護の問題は、いつも女性が負わされ、防衛やエネルギー政策の問題は、子どもたちに降りかかる。
      政治は、誰のためにあるのだろう。
      本当に助けるべき人を考えれば、答えは自ずと見えてくる。
      ひとりの母親として、ひとりの県民として、生まれ育った秋田を守りたい。
      子どもから高齢者まで、すべての世代を包み込み、つなげていくような社会を作りたい。
      あたりまえに安心して暮らせる毎日こそ、豊かな未来を育てていくと思うから。

寺田 静

私の想い

孤絶する1人、苦しむ1家族のために、
99人が配慮する社会は作れないのか。

私自身について、そして、
なぜ政治の世界に飛び込むのか、
どんな社会を目指しているのか、
今の偽らざる想いをまとめました。
是非、ご一読いただけましたら幸いです。

なぜ、政治の世界に飛び込むのか なぜ、政治の世界に飛び込むのか

複数の政党から打診を受けて数ヶ月、一部報道では決まったかのような[…]

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 複数の政党から打診を受けて数ヶ月、一部報道では決まったかのような書き方をされ、出るのだろうと噂されてからも、私自身は、自分の気持ちと向き合いながら、行きつ戻りつの気持ちで悩んできました。やりたくない気持ちは、単に恥ずかしいとか怖いとかいうことまで含めたら星の数ほどあります。なかでも、私自身の、恐らくは最初で最後の子どもになるであろう5歳の息子との時間を慈しみながら過ごしたいという思いが強くありました。でも、私が今回やろうと思ったのは、政治嫌いな実家の母が震災後に何気なく言ったひと言が決定打でした。

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 震災から数年後、テレビを見ていたとき、「日本にこんなに原発がたくさんできていたなんて知らなかった。子育てに夢中になっている間にたくさん造られていた。自分たちの無関心があんな事故を生んで、ひどい人災。反省している」と。

 原発の方向性もまた変わってしまったし、秋田にもイージス・アショアができてしまうかもしれない。だから、今回、私もやらなかったら、将来子どものために全力でできることをしてきたのかと後悔するかもしれない。悩んで深みにはまり、やっぱりやめようと思ったとき、いつもこの母の言葉が引っかかり、私の気持ちをまた変えました。

 ひとりの県民、ひとりの母親として、生まれ育った秋田と、子どもたちのためにできることを精一杯頑張りたい。ひたすら自分の気持ちと向き合い、悩みに悩んで出した結論です。人生の棚卸もして、10年ぐらい老け込んだ気持ちですが、今はさっぱりしています。政治家の妻とか、ママとかいうくくりで八方美人をして、そんなことを続けていたら自分の輪郭すらよくわからなくなってきた最近。なので、ここでひとつ自分の思いを余すところなく発言し、頑張ろう! と思います。

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私自身について 私自身について

寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。

 父の仕事の都合で小学校3年の夏に青森に引っ越し。その頃、祖父が増田町の町長選挙に出ることになり、母は秋田に手伝いへ。とても寂しかった思い出がある(この思い出が我が子と重なり、今回の決断を悩む原因でもあった)。

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 小学校6年の冬に茨城に引っ越し。「転校生」と呼ばれても返事をせず、「もう1ヶ月も経つのに転校生と呼ぶな」と喧嘩したりして、気の強い少女時代だった。前の学校との教科書の違いにより、勉強していない部分を先生が毎朝補習をしてくれ、学力が落ちずにすんだ。本当に感謝。
 この間、両親の実家で、会社が倒産したり、借金の連帯保証人になったりしていたため、親戚が自己破産することになり、両親も建てた家を手放すことに。我が家自体はそれなりに平和ではあったものの、子ども心にも、経済的にあまり余裕がないことを感じつつ育った。

 中学校3年で横手市に戻り、横手南中学校に転校。マンモス校で、管理教育の側面が強く、それに合わず不登校に。11月から卒業までの5ヶ月登校しなかった。
 横手城南高校進学後は楽しく過ごしていたものの、進路指導などを通じ、再び学校生活に息苦しさを感じ高校3年の5月に中退。先生からは「大検に落ちたら戻ってきて。補習して同級生と一緒に卒業させてあげる」と言われる円満中退(?)であった。9月、大検に無事合格。現役の年はセンター試験のみ受けるもひどい点数だったので大学には出願しなかった。
 仙台市で浪人の1年を過ごし、1994年、育英会の奨学金をもらい早稲田大学に進学。心理学などを学んだ。不登校を卒論のテーマにしたいと思っていたが、当時、心理学で扱う不登校が「学校復帰」を軸にしたものが多いことに違和感があり、性格と疾病の関連をテーマに選んだ。そのことから精神医学に興味を持ち、医学部の学士入学試験に挑戦するが不合格。
 「浪人中は働け」との両親の指導の下、東京大学生産技術研究所に勤務。研究室で先生の補佐、留学生のケアなどにあたった。その間、不登校経験があったために興味を持った「フリースクールスタッフ養成研修・実習」に参加。終了後、実習先だったフリースクールジャパンフレネに週一度、東京シューレに1ヶ月、ボランティアスタッフとして勤務した。

 その折、大学生だった弟が倒れ植物状態に。2週間に一度秋田に戻り両親を支えるが、翌年、弟は旅立った。残された家族で一緒に暮らしたいと願い、仕事をやめて実家に戻った。
 弟を失ったことは、本当に大きな出来事で、今までの自分の歩みにすら向き合えなくなっていった。徐々に立ち直るなか、弟はもう何もすることができないのだから、やりたいことはなんでもやってみようと決意。今までテーマとしていた不登校、子どもに関わること以外で、自分が好きな海の環境に関することを仕事にしたいとの思いから、ハワイ大学の海洋科学部に学士入学。
 一時帰国中の2003年、父から言われ、初の衆議院選挙を迎えていた寺田の選挙を手伝わされた。「政治なんて本当は大嫌い」、「一刻も早く立ち去りたい」との思いが強かったが、同世代が集まり、真面目に地域や国を変えようと将来を語り合う雰囲気に徐々に引きこまれていった。当選後、興味がある教育や環境問題などに関われることに魅力を感じ、また、これまで社会を変える努力をせず、自分が出ていくことだけしか考えていなかった反省もあり、秘書となった(ハワイ大学は中退)。主に国会事務所にて、子ども子育て政策、男女共同参画、医療・環境分野などに興味を持ち、様々な勉強会に参加した。

 2009年9月、寺田と結婚。川口博衆議院議員公設秘書を経てベネッセの福武氏が音頭をとる電気自動車普及協会の立ち上げに参加させてもらう。その後、参議院議員となった義父の事務所を手伝った。
 夫落選中の2013年、諦めていた子どもを授かる。
 2014年、夫再選。育児に忙殺され過ごす。この間、英語を生かし、県内の友人の海外事業や取引をサポート。
 2019年、自ら政治に向き合うことを決めた。弟を失った時を境にして正面から向き合えなかった社会問題に、正直に、まっすぐ向き合おうと決意した。

 以上が私の44年間の歩みです。
 自分自身でも平坦な半生ではないと感じていますが、その分、考えたことも多いと思っています。夫曰く「議会は感性の集合体」。ひとりの県民として、ひとりの母親として、生まれ育った秋田と、未来ある子どもたちのためによりよい秋田を手渡せるようできる限りのことを精一杯頑張りたいと思います。

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寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。[…]

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寺田 静(てらたしずか)
旧姓 江上(えがみ)
1975年(昭和50年)3月、秋田県横手市生まれ。

 父の仕事の都合で小学校3年の夏に青森に引っ越し。その頃、祖父が増田町の町長選挙に出ることになり、母は秋田に手伝いへ。とても寂しかった思い出がある(この思い出が我が子と重なり、今回の決断を悩む原因でもあった)。
 小学校6年の冬に茨城に引っ越し。「転校生」と呼ばれても返事をせず、「もう1ヶ月も経つのに転校生と呼ぶな」と喧嘩したりして、気の強い少女時代だった。前の学校との教科書の違いにより、勉強していない部分を先生が毎朝補習をしてくれ、学力が落ちずにすんだ。本当に感謝。
 この間、両親の実家で、会社が倒産したり、借金の連帯保証人になったりしていたため、親戚が自己破産することになり、両親も建てた家を手放すことに。我が家自体はそれなりに平和ではあったものの、子ども心にも、経済的にあまり余裕がないことを感じつつ育った。

 中学校3年で横手市に戻り、横手南中学校に転校。マンモス校で、管理教育の側面が強く、それに合わず不登校に。11月から卒業までの5ヶ月登校しなかった。
 横手城南高校進学後は楽しく過ごしていたものの、進路指導などを通じ、再び学校生活に息苦しさを感じ高校3年の5月に中退。先生からは「大検に落ちたら戻ってきて。補習して同級生と一緒に卒業させてあげる」と言われる円満中退(?)であった。9月、大検に無事合格。現役の年はセンター試験のみ受けるもひどい点数だったので大学には出願しなかった。
 仙台市で浪人の1年を過ごし、1994年、育英会の奨学金をもらい早稲田大学に進学。心理学などを学んだ。不登校を卒論のテーマにしたいと思っていたが、当時、心理学で扱う不登校が「学校復帰」を軸にしたものが多いことに違和感があり、性格と疾病の関連をテーマに選んだ。そのことから精神医学に興味を持ち、医学部の学士入学試験に挑戦するが不合格。
 「浪人中は働け」との両親の指導の下、東京大学生産技術研究所に勤務。研究室で先生の補佐、留学生のケアなどにあたった。その間、不登校経験があったために興味を持った「フリースクールスタッフ養成研修・実習」に参加。終了後、実習先だったフリースクールジャパンフレネに週一度、東京シューレに1ヶ月、ボランティアスタッフとして勤務した。

 その折、大学生だった弟が倒れ植物状態に。2週間に一度秋田に戻り両親を支えるが、翌年、弟は旅立った。残された家族で一緒に暮らしたいと願い、仕事をやめて実家に戻った。
 弟を失ったことは、本当に大きな出来事で、今までの自分の歩みにすら向き合えなくなっていった。徐々に立ち直るなか、弟はもう何もすることができないのだから、やりたいことはなんでもやってみようと決意。今までテーマとしていた不登校、子どもに関わること以外で、自分が好きな海の環境に関することを仕事にしたいとの思いから、ハワイ大学の海洋科学部に学士入学。
 一時帰国中の2003年、父から言われ、初の衆議院選挙を迎えていた寺田の選挙を手伝わされた。「政治なんて本当は大嫌い」、「一刻も早く立ち去りたい」との思いが強かったが、同世代が集まり、真面目に地域や国を変えようと将来を語り合う雰囲気に徐々に引きこまれていった。当選後、興味がある教育や環境問題などに関われることに魅力を感じ、また、これまで社会を変える努力をせず、自分が出ていくことだけしか考えていなかった反省もあり、秘書となった(ハワイ大学は中退)。主に国会事務所にて、子ども子育て政策、男女共同参画、医療・環境分野などに興味を持ち、様々な勉強会に参加した。

 2009年9月、寺田と結婚。川口博衆議院議員公設秘書を経てベネッセの福武氏が音頭をとる電気自動車普及協会の立ち上げに参加させてもらう。その後、参議院議員となった義父の事務所を手伝った。
 夫落選中の2013年、諦めていた子どもを授かる。
 2014年、夫再選。育児に忙殺され過ごす。この間、英語を生かし、県内の友人の海外事業や取引をサポート。
 2019年、自ら政治に向き合うことを決めた。弟を失った時を境にして正面から向き合えなかった社会問題に、正直に、まっすぐ向き合おうと決意した。

 以上が私の44年間の歩みです。
 自分自身でも平坦な半生ではないと感じていますが、その分、考えたことも多いと思っています。夫曰く「議会は感性の集合体」。ひとりの県民として、ひとりの母親として、生まれ育った秋田と、未来ある子どもたちのためによりよい秋田を手渡せるようできる限りのことを精一杯頑張りたいと思います。

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私が望む社会 私が望む社会

孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか 孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか

この問いは、私が取材を受けた本に載せられたもの。そしてこの言葉は、私が望む社会そのものです。
そう強く思うようになった私の経験をお話ししたいと思います。

全文を読む

 それは20年前に倒れ、亡くなった弟、茂之のこと。
 弟は大学の講義の最中に倒れ、そのまま意識が戻らず、いわゆる植物状態になり、1年3ヶ月の闘病の末亡くなった。弟は埼玉の大学に通っていたため、東京都内で働いていた私に母から連絡がきた。病院に着くとすぐに救急の担当医から説明。到着時には心肺停止状態。なんとか蘇生はしたものの、いつ急変してもおかしくない状態だと。追って上京した母と共に、昼は病院、夜は病院からの急変の連絡に怯えながら弟のアパートに帰る。そんな生活をして5日後、重い表情の担当医に呼ばれた。「一番危険な状態はなんとか脱した。が、意識が戻っていない。心停止で脳に血流がいかなかった時間が長く、大脳が不可逆的な変化を遂げてしまった。残念ながらこの先、茂之くんの意識の回復は望めないだろう」と。それ以降の言葉は覚えていない。隣に座る母の背中をさすりながら自分が泣き崩れてしまった。

 遷延性意識障害。そんな言葉を、弟のことがあって初めて知った。いわゆる植物状態のことだ。テレビで見ていると、植物状態というのはただ綺麗な顔で目を閉じて寝ている。が、実際、多くのケースはそうではない。少なくとも、弟には目を開いて宙を見つめ覚醒状態にあるときと、目を閉じて寝ているときがあった。あくびをして顎が外れ、元に戻してもらうまで数十分涙を流して苦しんだり、流動食を戻してしまったり、痰の吸引などに苦しそうに顔をしかめ声なき声でもがいたり。身体が硬直しないようにリハビリをしてもらうが、動くことのない身体はどんどん骨と皮だけになっていき、弟の脚は私の腕ぐらいの太さになった。脳幹という生命維持を司るところのそばにある聴覚は最後まで残っていて「音は聞こえているので話しかけてあげてくださいね」と言われる。事実、何か物を落としたりして大きな音がするとびくっと身体を震わせる。意識とはなんだろう。弟はあちら側に行ったわけでもなく、かといって呼びかけに答えてくれることもない。植物状態から奇跡的に回復したなどの話を聞き色々と調べてみたり、文献を取り寄せたりするが、その都度わかったことは、そうしたケースは交通事故などの頭部外傷の患者さんであり、弟のように心停止によって脳の全体に血流が途絶えたケースとは違っていた。調べれば調べるほど意識の回復は絶望的に思われ、語りかけをといわれても、弟の顔を見、骨と皮ばかりになった身体を見ては涙しか出てこなかった。父も、そうした現実と向き合うことが辛いのか、病院に寄り付かず、朝から晩まで病院で過ごす母と気持ちがすれ違うばかり。それぞれがそれぞれの悲しみで手一杯で、互いを思いやる余裕もなく、家族の気持ちがバラバラだった。

 母は、弟の容体が安定すると、自宅での介護を望み、痰の吸引の仕方や体位交換の仕方などを習っていった。とはいえ数時間おきのそうした処置やおむつの交換などを24時間つとめることは過酷で、在宅の間、母の体重は一時30キロ台になった。容体が急変してまた病院に戻ると、母が少し休めるとホッとした。母に一度、「意識がないのだから、そんなにずっと病院にいなくてもいいのでは?」と言った。母まで倒れてしまうと心配だったからだ。でも、母は「もしも一瞬だけ意識が戻って、その時に(家族が誰も)いなかったら?」と言った。なんと残酷なことを母に言ってしまったのか。当時の私は、母の気持ちに十分に寄り添うことができていなかった。そのことを今でも後悔している。
 母は、弟の状態が永続だと認めたくないこともあり、障害者手帳の交付などを一時拒んだ。在宅のベッドや痰の吸引器具など、補助を申請しても、なかなか適応にならないことも多かった。「死ぬことなどないだろう」そう思って19歳の弟にかけられていた保険から、死亡・高度障害時の一時金が支給された。入院費や在宅での看護介護の費用に消えていった。
 弟は、こうして病院や在宅での看護、介護の末、徐々に全身の臓器の状態が悪化し、1年3ヶ月の闘病ののちに亡くなった。最期は臓器からの出血が止まらず、苦しそうな下顎呼吸を繰り返した。「もうたくさん頑張った。もういいんだよ。ありがとう」家族で泣きながら声をかけ、病院のベッドで息を引き取った。父の涙を見たのはその時一度きりで、きっとこれからもないだろう。

 医療が発達し、弟のように、命は助かっても意識が戻らないケースが増えているという。弟の死から10年以上経ち、何かで弟のことを知った河北新報社から取材を受けた。遷延性意識障害の患者家族の特集をしていたのだった。後にその特集は一冊の本にまとめられ、その帯に書かれていたのが冒頭の問い。

 「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか」

 今この瞬間も、介護と看護に明け暮れ、もしかしたら病院や行政の対応、制度や法律の不備に苦しみ、しかし声を上げる気力も体力もなく苦しんでいる方があることを知っている。子育てに追われる日々のなか、私の母のように、自分より遥かに若い子どもの介護や看護に苦心し、親亡き後の子どもの行く末を思い悩んでいるたくさんの人たちがいる。こうしたケアワークは、特に家庭では、担い手は女性である場合がまだ多い。

 弟を亡くしてから、こうした現実があることを知りつつも、弟のことを忘れたいがために仕事に没頭してきました。このことに今も罪悪感を覚えながら、この現実と悩みの切実さを知るひとりの女性として、そうした声なき声の代弁者であれたらと強く願い、今回、自分自身が政治に向き合う決意をしました。

 「個人的なことは政治的なこと」。政治に向き合うことを決めたときに友人から贈られたこの言葉を噛み締めながら歩みたいと思います。

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「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、
99人が配慮する社会は作れないのか」[…]

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孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか 孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか

この問いは、私が取材を受けた本に載せられたもの。そしてこの言葉は、私が望む社会そのものです。
そう強く思うようになった私の経験をお話ししたいと思います。

 それは20年前に倒れ、亡くなった弟、茂之のこと。
 弟は大学の講義の最中に倒れ、そのまま意識が戻らず、いわゆる植物状態になり、1年3ヶ月の闘病の末亡くなった。弟は埼玉の大学に通っていたため、東京都内で働いていた私に母から連絡がきた。病院に着くとすぐに救急の担当医から説明。到着時には心肺停止状態。なんとか蘇生はしたものの、いつ急変してもおかしくない状態だと。追って上京した母と共に、昼は病院、夜は病院からの急変の連絡に怯えながら弟のアパートに帰る。そんな生活をして5日後、重い表情の担当医に呼ばれた。「一番危険な状態はなんとか脱した。が、意識が戻っていない。心停止で脳に血流がいかなかった時間が長く、大脳が不可逆的な変化を遂げてしまった。残念ながらこの先、茂之くんの意識の回復は望めないだろう」と。それ以降の言葉は覚えていない。隣に座る母の背中をさすりながら自分が泣き崩れてしまった。

 遷延性意識障害。そんな言葉を、弟のことがあって初めて知った。いわゆる植物状態のことだ。テレビで見ていると、植物状態というのはただ綺麗な顔で目を閉じて寝ている。が、実際、多くのケースはそうではない。少なくとも、弟には目を開いて宙を見つめ覚醒状態にあるときと、目を閉じて寝ているときがあった。あくびをして顎が外れ、元に戻してもらうまで数十分涙を流して苦しんだり、流動食を戻してしまったり、痰の吸引などに苦しそうに顔をしかめ声なき声でもがいたり。身体が硬直しないようにリハビリをしてもらうが、動くことのない身体はどんどん骨と皮だけになっていき、弟の脚は私の腕ぐらいの太さになった。脳幹という生命維持を司るところのそばにある聴覚は最後まで残っていて「音は聞こえているので話しかけてあげてくださいね」と言われる。事実、何か物を落としたりして大きな音がするとびくっと身体を震わせる。意識とはなんだろう。弟はあちら側に行ったわけでもなく、かといって呼びかけに答えてくれることもない。植物状態から奇跡的に回復したなどの話を聞き色々と調べてみたり、文献を取り寄せたりするが、その都度わかったことは、そうしたケースは交通事故などの頭部外傷の患者さんであり、弟のように心停止によって脳の全体に血流が途絶えたケースとは違っていた。調べれば調べるほど意識の回復は絶望的に思われ、語りかけをといわれても、弟の顔を見、骨と皮ばかりになった身体を見ては涙しか出てこなかった。父も、そうした現実と向き合うことが辛いのか、病院に寄り付かず、朝から晩まで病院で過ごす母と気持ちがすれ違うばかり。それぞれがそれぞれの悲しみで手一杯で、互いを思いやる余裕もなく、家族の気持ちがバラバラだった。

 母は、弟の容体が安定すると、自宅での介護を望み、痰の吸引の仕方や体位交換の仕方などを習っていった。とはいえ数時間おきのそうした処置やおむつの交換などを24時間つとめることは過酷で、在宅の間、母の体重は一時30キロ台になった。容体が急変してまた病院に戻ると、母が少し休めるとホッとした。母に一度、「意識がないのだから、そんなにずっと病院にいなくてもいいのでは?」と言った。母まで倒れてしまうと心配だったからだ。でも、母は「もしも一瞬だけ意識が戻って、その時に(家族が誰も)いなかったら?」と言った。なんと残酷なことを母に言ってしまったのか。当時の私は、母の気持ちに十分に寄り添うことができていなかった。そのことを今でも後悔している。
 母は、弟の状態が永続だと認めたくないこともあり、障害者手帳の交付などを一時拒んだ。在宅のベッドや痰の吸引器具など、補助を申請しても、なかなか適応にならないことも多かった。「死ぬことなどないだろう」そう思って19歳の弟にかけられていた保険から、死亡・高度障害時の一時金が支給された。入院費や在宅での看護介護の費用に消えていった。
 弟は、こうして病院や在宅での看護、介護の末、徐々に全身の臓器の状態が悪化し、1年3ヶ月の闘病ののちに亡くなった。最期は臓器からの出血が止まらず、苦しそうな下顎呼吸を繰り返した。「もうたくさん頑張った。もういいんだよ。ありがとう」家族で泣きながら声をかけ、病院のベッドで息を引き取った。父の涙を見たのはその時一度きりで、きっとこれからもないだろう。

 医療が発達し、弟のように、命は助かっても意識が戻らないケースが増えているという。弟の死から10年以上経ち、何かで弟のことを知った河北新報社から取材を受けた。遷延性意識障害の患者家族の特集をしていたのだった。後にその特集は一冊の本にまとめられ、その帯に書かれていたのが冒頭の問い。

 「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか」

 今この瞬間も、介護と看護に明け暮れ、もしかしたら病院や行政の対応、制度や法律の不備に苦しみ、しかし声を上げる気力も体力もなく苦しんでいる方があることを知っている。子育てに追われる日々のなか、私の母のように、自分より遥かに若い子どもの介護や看護に苦心し、親亡き後の子どもの行く末を思い悩んでいるたくさんの人たちがいる。こうしたケアワークは、特に家庭では、担い手は女性である場合がまだ多い。

 弟を亡くしてから、こうした現実があることを知りつつも、弟のことを忘れたいがために仕事に没頭してきました。このことに今も罪悪感を覚えながら、この現実と悩みの切実さを知るひとりの女性として、そうした声なき声の代弁者であれたらと強く願い、今回、自分自身が政治に向き合う決意をしました。

 「個人的なことは政治的なこと」。政治に向き合うことを決めたときに友人から贈られたこの言葉を噛み締めながら歩みたいと思います。

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私の想い

政治は何のために、
誰のためにあるのか、
本当に助けるべき人を考えれば
応えは自ずと見えてくるはずです。

ひとりの母親、ひとりの県民として、
私が実現したい社会とは、
誰もが安心して暮らせる社会。
是非、ご一読いただけましたら幸いです。

子どもがもっと増える環境に 意思決定の場に、もっと女性たちを

 子どもが増えないのはなぜか。
 少し前、政治家から「子どもを最低でも3人くらい産んでもらうように(女性に)お願いしてもらいたい」との発言がありました。このような発言は度々あり、その度にモヤモヤとした思いを持っていました。「少子化なのだから当たり前」と擁護する声も実は少なくないのですが、ここは丁寧に考えたいのです。

全文を読む

 こうした言葉は、恐らくなんら悪気はなく、彼らから見ればいわば「小娘」のような年下の女性たちに対して、アドバイスのように発せられているのだろうと想像できます。でも、彼らが望むように子どもが増えていかないのは、その小娘たちがアドバイスを無視しているからではないことをわかって欲しいのです。
 私は思います。日本の社会は長く、その小娘たちを蔑ろにしてきて、でも、その小娘たちしか命を生み出すことができないからこそ、その帰結として人口減少が進んできたのだと。「勉強しろ」、「いい学校にいけ」、「いい会社に入れ」、「仕事はもういいから、いい人を見つけて結婚しろ」、「結婚したら仕事は辞めろ」、「早く子どもを産め」、「一人っ子はダメ、早く2人目を…」等、小娘たちへのプレッシャーは絶えることがありません。さらに、ここ数年は、ちゃんとした育児との両立の環境を整えてもくれずに、仕事もして稼いで税金を納めて「女性活躍」しろ、というのはあんまりじゃないかと。私たち一人ひとりの人生には寄り添わず、単に経済を支えるコマとして見られているように感じます。
 「子どもを少なくとも3人は産むように」と発言した方には、時に職場で女性たちは、こんなことを言われている事実を是非知ってほしいのです。「新入社員が妊娠なんてありえない」、「妊娠は順番を考えて(先輩が優先。産休、育休の人が増えると職場が大変なので)」、「育休があけたと思ったらまた妊娠?(社員として)育ててあげようと思っているのにタイミングを考えて」、「3人目(の育休)だって?犬じゃあるまいし」、これらは全て私が見聞きしたものです。
 一方で、先日お話しさせていただいた15人ほどの会の中には、不妊治療に200万円かけたが授からなかったという方が2人いました。貯金が尽きて、諦めがついたとも。私も結婚後4年間、子どもを授かりませんでした。子どもが欲しくても授からない人がいる。誰もが妊娠する時期を選べるわけではない。こんな当たり前のことが、きっと見えていないから、冒頭の発言が出てくるのだろうと思うのです。
 こうした状況を作っている一番大きな原因は、やはり意思決定の場に女性が少ないこと、いわば小娘が政治の世界に少なすぎることだと私は考えます。
 「私たち抜きに、私たちのことを決めないで」とは、障がい者施策に関して述べられたものではありますが、女性を取り巻く環境についても同じことを思うのです。
 一人ひとりの女性、そして、男性も含めて、一人ひとりが自分の価値観に沿って自由に人生を歩む中で、その一つひとつの選択がそれぞれ尊重され、よりよい人生を歩んでいくことができるように支援がある、そうしたことが実現されてはじめて、子どもを産み育てたいと思う人が増える国や社会になる、そうしなければ子どもは増えていかない。出産年齢にあるひとりの女性として、強くそう思います。

 この夏、多くの女性たちが声を上げようとしています。そのなかの一人として頑張りたいと思います。
 小娘たちの行進を。

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子どもがもっと増える環境に

意思決定の場に、もっと女性たちを
子どもが増えないのはなぜか。 […]

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意思決定の場に、もっと女性たちを

 子どもが増えないのはなぜか。
 少し前、政治家から「子どもを最低でも3人くらい産んでもらうように(女性に)お願いしてもらいたい」との発言がありました。このような発言は度々あり、その度にモヤモヤとした思いを持っていました。「少子化なのだから当たり前」と擁護する声も実は少なくないのですが、ここは丁寧に考えたいのです。
 こうした言葉は、恐らくなんら悪気はなく、彼らから見ればいわば「小娘」のような年下の女性たちに対して、アドバイスのように発せられているのだろうと想像できます。でも、彼らが望むように子どもが増えていかないのは、その小娘たちがアドバイスを無視しているからではないことをわかって欲しいのです。
 私は思います。日本の社会は長く、その小娘たちを蔑ろにしてきて、でも、その小娘たちしか命を生み出すことができないからこそ、その帰結として人口減少が進んできたのだと。「勉強しろ」、「いい学校にいけ」、「いい会社に入れ」、「仕事はもういいから、いい人を見つけて結婚しろ」、「結婚したら仕事は辞めろ」、「早く子どもを産め」、「一人っ子はダメ、早く2人目を…」等、小娘たちへのプレッシャーは絶えることがありません。さらに、ここ数年は、ちゃんとした育児との両立の環境を整えてもくれずに、仕事もして稼いで税金を納めて「女性活躍」しろ、というのはあんまりじゃないかと。私たち一人ひとりの人生には寄り添わず、単に経済を支えるコマとして見られているように感じます。
 「子どもを少なくとも3人は産むように」と発言した方には、時に職場で女性たちは、こんなことを言われている事実を是非知ってほしいのです。「新入社員が妊娠なんてありえない」、「妊娠は順番を考えて(先輩が優先。産休、育休の人が増えると職場が大変なので)」、「育休があけたと思ったらまた妊娠?(社員として)育ててあげようと思っているのにタイミングを考えて」、「3人目(の育休)だって?犬じゃあるまいし」、これらは全て私が見聞きしたものです。
 一方で、先日お話しさせていただいた15人ほどの会の中には、不妊治療に200万円かけたが授からなかったという方が2人いました。貯金が尽きて、諦めがついたとも。私も結婚後4年間、子どもを授かりませんでした。子どもが欲しくても授からない人がいる。誰もが妊娠する時期を選べるわけではない。こんな当たり前のことが、きっと見えていないから、冒頭の発言が出てくるのだろうと思うのです。
 こうした状況を作っている一番大きな原因は、やはり意思決定の場に女性が少ないこと、いわば小娘が政治の世界に少なすぎることだと私は考えます。
 「私たち抜きに、私たちのことを決めないで」とは、障がい者施策に関して述べられたものではありますが、女性を取り巻く環境についても同じことを思うのです。
 一人ひとりの女性、そして、男性も含めて、一人ひとりが自分の価値観に沿って自由に人生を歩む中で、その一つひとつの選択がそれぞれ尊重され、よりよい人生を歩んでいくことができるように支援がある、そうしたことが実現されてはじめて、子どもを産み育てたいと思う人が増える国や社会になる、そうしなければ子どもは増えていかない。出産年齢にあるひとりの女性として、強くそう思います。

 この夏、多くの女性たちが声を上げようとしています。そのなかの一人として頑張りたいと思います。
 小娘たちの行進を。

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子どもがもっと増える環境に 意思決定の場に、もっと女性たちを

 先日、父子家庭の方から「母子家庭・父子家庭の生活と子育ての悲痛は、計り知れないものがあることを知って欲しい」とのご指摘をいただきました。私が目指しているのは、こうしていただく小さな声の一つひとつをしっかりと受け止め、安心につなげていくこと。活動を始めて数ヶ月、まだまだ私がやりたいと思っていることをお伝えできていないのですが、その中の一つに、「養育費の立替払い」の制度化があります。

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 私の親友たちも、現在、父子家庭・母子家庭でそれぞれ大変な状況にあります。父子家庭の友人は、当然ながらフルタイムの仕事との両立が難しく、両親が仕事を辞めて友人の家に同居することで、なんとか仕事を続けることができています。ただ、両親もそれぞれ高齢になり、いつ介護が必要になるかもわかりません。この状態がいつまで続くのか、綱渡り状態だと心配しています。母子家庭の友人の現状はもっと深刻です。さまざまな事情もあり、実家からの援助が得られず、小学生と保育園児を抱えて非正規でしか働けず、ギリギリの状況で暮らしています。非正規ですから、風邪で休めばその分その月のお給料は減り、そのプレッシャーは相当なものです。どちらも、離婚した相手から養育費は得られていません。
 ひとり親世帯の半数以上が「生活が苦しい」と感じ、実際に貧困ラインと呼ばれる所得しか得られていません。昨今の日本の傾向として、自己責任ということが言われますが、ことこの件に関しては、子どもの福祉、子どもの権利ということが忘れ去られているとすら感じます。一番に考えるべきは子どもの利益です。
 兵庫県明石市では養育費の立替払い制度が導入され、保証会社を介して養育費が養育者に払われ、相手には保証会社から請求がいく仕組みとなっています。市側の負担は保証会社に払う保険金のようなもののみです。どこの市町村でもやろうと思えばできると思うのですが、そうした自治体の自主的な取り組み、首長の一存に任せるのではなく、子どもの利益に最善の道を拓くため、国としての制度化が必要だと考えています。
 子育ては、夫婦二人でも大変です。かくいう我が家も、先月一度子どもが39度の熱を出し、互いに予定を大幅に変えざるを得ませんでした。こうした責任を一人で負う重責のみならず、経済的な心配をしながら生活しなければいけないことの負担はいかほどかと思います。私の友人たちのことだけを頭に浮かべても、時間、体力、気力、経済的余裕のない中で弁護士に相談して養育費のことを解決するなどということは無理難題だと容易に想像でき、なんとしてもこの立替払い制度の全国制度化が必要だと強く感じています。
 毎日の生活はもちろんですが、こうした家計の状況が、子どもたちにかけられる教育費にも響いて、事実、親の所得と子どもたちの学歴は相関関係にあることも明らかとなっています。子どもの貧困を防ごうと、子ども食堂などの活動も全国に広がりを見せており、そうした善意の取り組み自体は素晴らしいものです。しかし、落ち着いて考えてみれば、こうしたことは、本来、国や行政が担うべき役割であろうと私は思います。自己責任で片付けるのではなくて、格差が世代を超えて連鎖するのを防いでいくことが、一人ひとりの人生を豊かにし、結果として国も豊かになることができるとの確信が私にはあります。もちろん、私一人で実現できることではありません。ですが、こうした思いも持ちながら政治を目指しております。
 政治は誰のためにあるのか、本当に助けるべき人を考えれば答えは自ずと見えてくるはず。このことを信じ、諦めずに頑張って参ります。

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子どもがもっと増える環境に

人それぞれの人生に寄り添った支援を
先日、父子家庭の方から「母子家庭[…]

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意思決定の場に、もっと女性たちを

 先日、父子家庭の方から「母子家庭・父子家庭の生活と子育ての悲痛は、計り知れないものがあることを知って欲しい」とのご指摘をいただきました。私が目指しているのは、こうしていただく小さな声の一つひとつをしっかりと受け止め、安心につなげていくこと。活動を始めて数ヶ月、まだまだ私がやりたいと思っていることをお伝えできていないのですが、その中の一つに、「養育費の立替払い」の制度化があります。
 私の親友たちも、現在、父子家庭・母子家庭でそれぞれ大変な状況にあります。父子家庭の友人は、当然ながらフルタイムの仕事との両立が難しく、両親が仕事を辞めて友人の家に同居することで、なんとか仕事を続けることができています。ただ、両親もそれぞれ高齢になり、いつ介護が必要になるかもわかりません。この状態がいつまで続くのか、綱渡り状態だと心配しています。母子家庭の友人の現状はもっと深刻です。さまざまな事情もあり、実家からの援助が得られず、小学生と保育園児を抱えて非正規でしか働けず、ギリギリの状況で暮らしています。非正規ですから、風邪で休めばその分その月のお給料は減り、そのプレッシャーは相当なものです。どちらも、離婚した相手から養育費は得られていません。
 ひとり親世帯の半数以上が「生活が苦しい」と感じ、実際に貧困ラインと呼ばれる所得しか得られていません。昨今の日本の傾向として、自己責任ということが言われますが、ことこの件に関しては、子どもの福祉、子どもの権利ということが忘れ去られているとすら感じます。一番に考えるべきは子どもの利益です。
 兵庫県明石市では養育費の立替払い制度が導入され、保証会社を介して養育費が養育者に払われ、相手には保証会社から請求がいく仕組みとなっています。市側の負担は保証会社に払う保険金のようなもののみです。どこの市町村でもやろうと思えばできると思うのですが、そうした自治体の自主的な取り組み、首長の一存に任せるのではなく、子どもの利益に最善の道を拓くため、国としての制度化が必要だと考えています。
 子育ては、夫婦二人でも大変です。かくいう我が家も、先月一度子どもが39度の熱を出し、互いに予定を大幅に変えざるを得ませんでした。こうした責任を一人で負う重責のみならず、経済的な心配をしながら生活しなければいけないことの負担はいかほどかと思います。私の友人たちのことだけを頭に浮かべても、時間、体力、気力、経済的余裕のない中で弁護士に相談して養育費のことを解決するなどということは無理難題だと容易に想像でき、なんとしてもこの立替払い制度の全国制度化が必要だと強く感じています。
 毎日の生活はもちろんですが、こうした家計の状況が、子どもたちにかけられる教育費にも響いて、事実、親の所得と子どもたちの学歴は相関関係にあることも明らかとなっています。子どもの貧困を防ごうと、子ども食堂などの活動も全国に広がりを見せており、そうした善意の取り組み自体は素晴らしいものです。しかし、落ち着いて考えてみれば、こうしたことは、本来、国や行政が担うべき役割であろうと私は思います。自己責任で片付けるのではなくて、格差が世代を超えて連鎖するのを防いでいくことが、一人ひとりの人生を豊かにし、結果として国も豊かになることができるとの確信が私にはあります。もちろん、私一人で実現できることではありません。ですが、こうした思いも持ちながら政治を目指しております。
 政治は誰のためにあるのか、本当に助けるべき人を考えれば答えは自ずと見えてくるはず。このことを信じ、諦めずに頑張って参ります。

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子どもがもっと増える環境に 意思決定の場に、もっと女性たちを

 私の親戚は横手市増田において家族で農業を営んでいます。主な作物は、米、さくらんぼ、りんご、ブルーベリー。幼い頃から近くで農家の大変さを見てきて、大人になってその大切さを実感しているからこそ、守り育てなければならないと思うのです。人は、土から離れて生きることはできません。

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 最近、農業は「産業政策」として語られることが増え、大規模化や法人化など、効率化ばかりが求められるようになりました。しかし、農業は命を支える人間生活の要であり、農地は洪水や土砂崩壊の防止、自然環境の保全など「多面的機能」を備えた地域の要でもあります。だからこそ、「産業政策」としてだけではなく、「地域政策」としての農政を重視し、国が一定の公費を投入してでも育て、守らなければならないと考えます。
 そのため、まずは安心して営農継続できる「戸別所得補償制度の復活」、そして、アメリカとの貿易交渉で農業を犠牲にすることなく、企業型だけではなく家族型農業も支援していく政策が必要であると考えています。
 農業は地域を守る。そのことを肝に銘じ頑張って参ります。

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子どもがもっと増える環境に

戸別所得補償制度の復活を
私の親戚は横手市増田において家族で[…]

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意思決定の場に、もっと女性たちを

 私の親戚は横手市増田において家族で農業を営んでいます。主な作物は、米、さくらんぼ、りんご、ブルーベリー。幼い頃から近くで農家の大変さを見てきて、大人になってその大切さを実感しているからこそ、守り育てなければならないと思うのです。人は、土から離れて生きることはできません。
 最近、農業は「産業政策」として語られることが増え、大規模化や法人化など、効率化ばかりが求められるようになりました。しかし、農業は命を支える人間生活の要であり、農地は洪水や土砂崩壊の防止、自然環境の保全など「多面的機能」を備えた地域の要でもあります。だからこそ、「産業政策」としてだけではなく、「地域政策」としての農政を重視し、国が一定の公費を投入してでも育て、守らなければならないと考えます。
 そのため、まずは安心して営農継続できる「戸別所得補償制度の復活」、そして、アメリカとの貿易交渉で農業を犠牲にすることなく、企業型だけではなく家族型農業も支援していく政策が必要であると考えています。
 農業は地域を守る。そのことを肝に銘じ頑張って参ります。

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子どもがもっと増える環境に 意思決定の場に、もっと女性たちを

 「こんな状況に置かれた時に、人間はとても弱くて」。  住民説明会で、毅然と意見を述べていたのに、直接お会いした新屋勝平振興会の皆さんからの言葉は、とても意外なものでした。

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 イージス・アショアの配備「適地」とされた、自衛隊秋田市新屋演習場。その演習場の目の前に新屋勝平地区はあります。多くの民家はもちろん、保育園から高校、福祉施設まで、起きてから眠るまでの生活全てが詰まった普通の住宅街です。その地域に突如として突きつけられたミサイルの配備計画。時が経つにつれ、地域には影響が出てきたと聞きました。「県外で働いている息子夫婦が、秋田に戻ってくることを躊躇し始めた」、「帰るのはちょっと、それより父さんたちが東京に来たらいいじゃないかと言われた」、「以前はすぐに売れていた地域の中古住宅に、いつまでも売家の看板がかかっている」、「子どもを育てる場所として相応しくないと考える人が増えるのでは?」、「秋田に住もうという人がいなくなるのではないか」。徐々に、地域は壊れ始めていると不安になる日々。だからこそ、立ち上がって「反対」の声をあげた。「俺らはもう5年、6年したらわからん。でも、子どもや孫のことを考えたら」と気持ちを奮い立たせて。
 そのような中、先日、防衛省から「新屋演習場が配備『適地』」との報告書が出されました。報道の通り、ずさんな計算間違いを交えて、乱暴に結論を導いたものでした。それでも、政府与党は未だに「新屋が適地」との姿勢を崩しません。住民に対する説明会の日程も、「地元のお祭りの日だから町民は出られない」と予め防衛省側に伝えてあったのに、結局そのままの日程で強行されました。
 杜撰な調査資料と説明会を強行する姿勢、説明会での居眠りの失態で、信頼関係は根底から崩れたはずなのに、今度は「イージスアショア整備推進本部」を作るという。こうした政府の姿を目の当たりにして「私たちは、馬鹿にされている」と憤りが募るのも当然のこと。「与党幹部も、政府高官も、ついには担当の防衛大臣も秋田市まで来て、目と鼻の先にある県庁やホテルには来たのに、地元地域にはなんの連絡もなく、ついに誰一人住民と会うことはなかったことも悔しい」と。「地元選出の国会議員も来てくれない。賛成でも反対でもいいから、この地に来て、その目で見て、我々の話を聞いてほしい」。その言葉が全てだと思います。
 先日、野党の国会議員数人が新屋地区に足を運びました。わずか数十分の短い滞在。その段取りを担った夫は、あまりに短い滞在だったので、住民の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいだったそうです。でも、終了後、振興会の会長からかけられた言葉は予想もしなかったものでした。「本当にありがとう。やっと東京から国会議員が来てくれた」、「ようやく、ここまできた」。半ば涙をためて絞り出すように語られた感謝の言葉を、夫は忘れられないといいます。
 ここに至るまでの皆さんの葛藤、努力、費やされた時間と労力を思うと、本当に胸が詰まり、お掛けする言葉がうまく見つかりませんでした。「ここで暮らす私たちの心情をわかってほしい」そう言われました。私が最近読んだ本のタイトルは「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会」というもの。声をあげても届かない人たちの話。まさしく、私たちの暮らす秋田のなかに、それはありました。
 振興会の皆さんは言います。「新屋への配備計画の話が出てから約1年半。反対の声をあげて活動しても、新屋以外の方からは『俺らには関係ない』と言われ、秋田市外の人からは『秋田(市)の話だろ』と関心を持ってもらえなかった。ここ10日ほどで新聞やテレビの全国放送で取り上げられるまでになり、ようやく注目してもらえた。これまで本当に孤独だったのだ」と。
 お願いがあります。これを読んでくださっている皆さまに。
 このように声を上げている新屋の住民の皆さんに、一緒に寄り添ってもらえないでしょうか。同じ、私たち秋田県民の切実な声です。昨年の夏、金足農業の活躍で一丸となった時のように、気持ちを一つにできないものでしょうか。何より、これだけ政府与党に気持ちが届かないなかで、私たち秋田県民が寄り添わなくて、他に誰が寄り添ってくれるのでしょうか。
 私も新屋住民と共にある。そうご賛同いただける方は、多くの方に想いを届けて欲しいのです。

 私は、新屋住民と共にあります。
 子どもを育てるひとりの母親として、新屋の皆さんの子や孫を思う気持ちが痛いほどわかり、また、ひとりの県民として、私のふるさと秋田がないがしろにされたことがあまりにも悲しいのです。懸命に頑張って参ります。

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子どもがもっと増える環境に

新屋の方々と共にありたい
「こんな状況に置かれた時に、人間は[…]

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意思決定の場に、もっと女性たちを

 「こんな状況に置かれた時に、人間はとても弱くて」。
 住民説明会で、毅然と意見を述べていたのに、直接お会いした新屋勝平振興会の皆さんからの言葉は、とても意外なものでした。
 イージス・アショアの配備「適地」とされた、自衛隊秋田市新屋演習場。その演習場の目の前に新屋勝平地区はあります。多くの民家はもちろん、保育園から高校、福祉施設まで、起きてから眠るまでの生活全てが詰まった普通の住宅街です。その地域に突如として突きつけられたミサイルの配備計画。時が経つにつれ、地域には影響が出てきたと聞きました。「県外で働いている息子夫婦が、秋田に戻ってくることを躊躇し始めた」、「帰るのはちょっと、それより父さんたちが東京に来たらいいじゃないかと言われた」、「以前はすぐに売れていた地域の中古住宅に、いつまでも売家の看板がかかっている」、「子どもを育てる場所として相応しくないと考える人が増えるのでは?」、「秋田に住もうという人がいなくなるのではないか」。徐々に、地域は壊れ始めていると不安になる日々。だからこそ、立ち上がって「反対」の声をあげた。「俺らはもう5年、6年したらわからん。でも、子どもや孫のことを考えたら」と気持ちを奮い立たせて。
 そのような中、先日、防衛省から「新屋演習場が配備『適地』」との報告書が出されました。報道の通り、ずさんな計算間違いを交えて、乱暴に結論を導いたものでした。それでも、政府与党は未だに「新屋が適地」との姿勢を崩しません。住民に対する説明会の日程も、「地元のお祭りの日だから町民は出られない」と予め防衛省側に伝えてあったのに、結局そのままの日程で強行されました。
 杜撰な調査資料と説明会を強行する姿勢、説明会での居眠りの失態で、信頼関係は根底から崩れたはずなのに、今度は「イージスアショア整備推進本部」を作るという。こうした政府の姿を目の当たりにして「私たちは、馬鹿にされている」と憤りが募るのも当然のこと。「与党幹部も、政府高官も、ついには担当の防衛大臣も秋田市まで来て、目と鼻の先にある県庁やホテルには来たのに、地元地域にはなんの連絡もなく、ついに誰一人住民と会うことはなかったことも悔しい」と。「地元選出の国会議員も来てくれない。賛成でも反対でもいいから、この地に来て、その目で見て、我々の話を聞いてほしい」。その言葉が全てだと思います。
 先日、野党の国会議員数人が新屋地区に足を運びました。わずか数十分の短い滞在。その段取りを担った夫は、あまりに短い滞在だったので、住民の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいだったそうです。でも、終了後、振興会の会長からかけられた言葉は予想もしなかったものでした。「本当にありがとう。やっと東京から国会議員が来てくれた」、「ようやく、ここまできた」。半ば涙をためて絞り出すように語られた感謝の言葉を、夫は忘れられないといいます。
 ここに至るまでの皆さんの葛藤、努力、費やされた時間と労力を思うと、本当に胸が詰まり、お掛けする言葉がうまく見つかりませんでした。「ここで暮らす私たちの心情をわかってほしい」そう言われました。私が最近読んだ本のタイトルは「『ほとんどない』ことにされている側から見た社会」というもの。声をあげても届かない人たちの話。まさしく、私たちの暮らす秋田のなかに、それはありました。
 振興会の皆さんは言います。「新屋への配備計画の話が出てから約1年半。反対の声をあげて活動しても、新屋以外の方からは『俺らには関係ない』と言われ、秋田市外の人からは『秋田(市)の話だろ』と関心を持ってもらえなかった。ここ10日ほどで新聞やテレビの全国放送で取り上げられるまでになり、ようやく注目してもらえた。これまで本当に孤独だったのだ」と。
 お願いがあります。これを読んでくださっている皆さまに。
 このように声を上げている新屋の住民の皆さんに、一緒に寄り添ってもらえないでしょうか。同じ、私たち秋田県民の切実な声です。昨年の夏、金足農業の活躍で一丸となった時のように、気持ちを一つにできないものでしょうか。何より、これだけ政府与党に気持ちが届かないなかで、私たち秋田県民が寄り添わなくて、他に誰が寄り添ってくれるのでしょうか。
 私も新屋住民と共にある。そうご賛同いただける方は、多くの方に想いを届けて欲しいのです。

 私は、新屋住民と共にあります。
 子どもを育てるひとりの母親として、新屋の皆さんの子や孫を思う気持ちが痛いほどわかり、また、ひとりの県民として、私のふるさと秋田がないがしろにされたことがあまりにも悲しいのです。懸命に頑張って参ります。

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大人も子どもも高齢者も障害者も、みんなが共に笑って生きられる社会。 大人も子どもも高齢者も障害者も、みんなが共に笑って生きられる社会。

ひとりの県民として

生まれ育った秋田の美しい大自然とそれがもたらす数々の新鮮な恵み。この豊かさを享受しつつ、幸せに年を重ねるために必要なものをひとつひとつ積み上げていく。リタイヤ世代が安心して生活できる毎日が、若い世代の希望にもつながります。

ひとりの母親として

育児や子育ての苦労、その間の経済的な悩み。安心して楽しく子育てができる秋田のために、必要なもの、不要なものがあります。秋田の持つ良さをこれからの世代にしっかりと引き継いでいくためにできることを、家庭を営む女性の視点から取り組みます。

小さな声を集め、大きな不安と闘っていく。 小さな声を集め、大きな不安と闘っていく。

悲しい事故や自死、介護を苦にした事件などは一人ひとりが胸にしまいこみ、忘れ去られ、その原因となったことは一向に改善されない。こうした社会は誰も望んでいないはずです。弱い立場の人を考えれば、答えは見えてくる。一つひとつの小さな声がしっかり届く豊かな社会を目指します。

私の考える政策

年金・医療・介護

安心して年を重ねることができるよう、持続的な年金制度への改革を急ぎます。医療、介護従事者の待遇改善をし、制度の見直しによって隙間のない医療・介護体制の構築を目指します。

地域経済

秋田経済のけん引役である中小企業が個性や可能性を存分に伸ばすことができるよう、社会保険料負担の軽減により正規雇用を増やし、事業承継政策の拡充により事業の継続を支援します。

子育て・教育

保育・教育・社会的養護の各分野を底上げし、社会全体で全ての子どもの育ちを支援します。高等教育の無償化・奨学金の拡充によって子ども達の可能性を広げます。

憲法

改憲をすること自体が目的と化している現政権下での議論には強い危機感を覚えます。地方分権等に関する改憲議論はなされてもよいと考えますが、9条の改正は必要ありません。

農林水産業

自民党政権下で廃止された戸別所得補償制度を復活、6次産業化などで特色ある取り組みを支援し、秋田の誇る農林水産業を支え、緑豊かな秋田の食と地域の安心を守ります。

消費税

秋田の景気は回復しておらず、この秋に10%に引き上げる環境は整っていません。事業者に多大な負担を掛ける難解な軽減税率や、ポイント制などの景気対策にも賛同できません。

エネルギー

東日本大震災の教訓を忘れず、再生可能エネルギーや省エネ等の技術開発の促進によって、原発に頼らない電力確保を実現します。

イージス・アショア

秋田市新屋地区への配備に強く反対します。防衛政策以前の大前提として、住宅地・学校などの目の前にミサイル基地の新設を許すことはできません。

しずか後援会

ご入会のお願い

寺田静後援会では、現在、後援会員を募集しています。
一緒に、安心な暮らしが何より大切にされる社会をつくりましょう。
また、ご家族・ご友人などもご紹介いただけましたら幸いです。

お電話からのご入会

下記番号へお電話いただき
お名前・ご住所・お電話番号を
お伝えください。

018-853-9226

< 受付時間 / 平日10時~17時 >

FAXからのご入会

お申込用紙(PDF)を印刷いただき、
必要事項をご記入の上、
下記FAX番号へお送りください。

FAX番号:018-853-9227

PROFILE

寺田 静 /てらた しずか

1975(昭和50)年、横手市生まれ。横手南中学校卒業。横手城南高校中退後、大検取得、育英会の奨学金を受け早稲田大学入学。卒業後、東京大学生産技術研究所勤務。また、不登校だった自らの経験もあり東京シューレ等のフリースクールにてボランティアを務める。この間、弟が突然の病に倒れ、遷延性意識障害(いわゆる植物状態)を経て亡くなる。この出来事が人生に対する考え、生き方に大きな影響を与えた。

その後、米国に留学。帰国後、寺田学や川口博両衆議院議員らの公設 秘書、電気自動車普及協会勤務。さらに、英語をいかして、県内事業者 の海外事業等をサポートしてきた。ひとりの母親として、教育、医療、介護、環境、地方が抱える問題等に関心を抱く。
夫と息子(5歳)の3人家族。

寺田静事務所

〒010-1424
秋田市御野場1-1-9
TEL/018-853-9226
FAX/018-853-9227

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