2019.03.11 10:46
結婚して1年半のあの日、私は東京で、議員宿舎におり、ひどい風邪をひいて居間に布団を敷き寝ていました。そこに地震。
地震防災の研究室で働いていたことがある私は、最初の微動から大きな揺れがくるまでの秒数をカウントするくせがついていました(自分がいる場所から震源地までのおおよその距離がわかるため)。最初の小さな揺れからの秒数はかなりあったのに、ここまでこんなに大きく揺れているということは、震源地は大変なことになっているとの直感。テーブルの下に身を隠しながら鳥肌が立つ。
見るともなく付けていたテレビからは地震のニュース。電話など当然つながらないと思っていたその時、内線電話。議員会館と議員宿舎は内線でつながっているのでした。電話をとると夫のスタッフから。双方の無事を確認。夫は議員会館から官邸に向かったとのこと。
震源地が東北であることを知り、当然家族にも電話をかけるがつながらず。夕方、秋田に帰れそうもないという友人からフェイスブック経由で連絡があり、その友人を我が家に迎えながら、二人でテレビから流れるあまりの惨状に言葉を失っていました。
この頃、塩釜に住む夫のいとこは、生後1ヶ月の赤ちゃんと猫を両脇に抱え、はだしで走って避難。その後、津波で水がひかないアパートに泳いで帰り、オムツを取りに行ったそうです。
地震、津波、そして原発事故。そこからの日々は、強く記憶に残っていること、覚えていないこととまだらのようになっています。事実として残っているのは、福島から引っ越し、今も秋田や北海道で生活を立て直そうと努力している友人たちがいること。
亡くなられたたくさんの方と、今も行方がわからない方々、そのご家族の皆さん、そして原発事故によって、今も多くの困難を抱えつつ暮らす方々に想いを馳せつつ。