2024.11.14 16:41
選挙中に亡くなった祖母のこと。魁新報さんの「時代を語る」ではないですが、私自身が覚えているために、ここに書き留めておきたいと思います。
火葬や葬儀で親戚と話をしたり、祖母の姪っ子が送ってくれた弔電から、祖母との色んな思い出が蘇ってきました。長文になるので、祖母の時代のことなどを懐かしんでいただける方だけお付き合い頂けたらと思います。
98歳の大往生。ここ10年ほどは、肺炎、骨折、コロナ、盲腸など入退院を繰り返し、「今回はもう厳しいかもしれないな」と家族で話すような局面も何度か。でも、その度に認知機能は衰えつつも元気になって退院し、「コロナになっても治って戻ってきたひいばあちゃんは不死身だね」と、ひ孫にあたる私の子どもも言っていて、なんだかんだいってきっとまたばあちゃんは復活するに違いない、と心のどこかで思っていました。
増田(今の横手市)の祖母宅は私が小学生の頃、夏休みのひと月を過ごした思い出の場所。
お風呂場にある大きなたらいの中には、井戸水で冷えているスイカが2、3ついつも入っていました。祖母が朝市で買ってきた採れたての枝豆ととうもろこしは、すぐに茹でられていつもテーブルの上に載っていて、いつもこの3つだけでお腹がいっぱいになるくらいでした。
祖父が日々手をかけていた池のある広い庭で、日がな一日虫取りや隣近所の子達とかくれんぼ、犬や猫と遊んだり、時には池の金魚や鯉を追いかけ回したり。夜明けに庭にでて、祖父とそっとセミの孵化するところを見たこともありました。夏の終わりには屋根の上で毛布にくるまって花火大会を見ました。花火の前には、視界の邪魔になる木の枝を祖父が落とすのが恒例でした。私にとってのかけがえのない原風景の一つは、今はもうないあの祖父の庭です。
祖母はいつも手を動かしていて、冬は冬でりんごはもちろん、かんきつ類を薄皮まで全部むいて綺麗に並べて食べ放題にさせてくれました。はつらつとしてくるくると表情が変わり、眠るときには毎晩ベッドの中でそらんじている沢山の昔話を聞かせてくれた祖母。
祖父は私が中学に上がった頃に倒れて闘病生活に入ったこともあり、祖父母の人生の一番いい時期に目一杯可愛がってもらったのは初孫の私だったろうと思うと、私より10歳ほど下の従兄弟たちには今も申し訳ないような気になります。
葬儀には、祖母にとっての姪っ子(妹の娘)からの弔電が届いていました。
そこには、「私が入院した時うちにきてくれて、子どもたちの面倒を見てくれましたね。その時に作ってくれた春巻きが美味しかったと、子どもたちはそれ以来『春巻きのばあちゃん』と慕っていた」とあり、料理好きの祖母がそういえば春巻き作りにはまって、やたらと春巻きばかり大量に揚げまくっていた時期があったなあと懐かしく思い出しました。残り物でもなんでも春巻きに入れるので、今日のはちょっと不思議だったよね、みたいな話を母としたことも。
マイブームみたいなものがあって、気に入るとしばらくそれを大量に作り、飽きると一切作らなくなる、というのが繰り返される一方で、定番もあり、砂糖をいれた甘い赤飯、鱈の子寒天、タラコを大量に入れたきんぴらごぼうなどは、今も私の大好物です。
人についても物についても、祖母の判断基準は自分が「好き」かどうか。「あれだば好ぎでね!」と、嫌いな人とは付き合わない、家にあげない。もらった物でも好きじゃないものは人にあげてしまう。健在な頃は、祖母宅には来客が絶えず、家族でないけれども家族同然に親しくしている祖母のお気に入りの友人らが一緒にご飯を食べていました。
お葬式に来てくださった方々のお顔を見ながら、祖母は結果として、自分が好きな人と好きな物に囲まれ、大人になってからそんな風に自由に生きていけるものかと思うほど、幸せに、思うままに人生を歩んでいたように思います。
祖父が倒れて介護をした数年を経て、祖父が他界してからは、数日連絡が取れないと母が心配していると、姉妹達と旅行に行ってきたとお土産を持って現れたりしていました。
趣味の麻雀も再開して、運転免許は持っていないものの、麻雀仲間がいつも祖母をどこにでも連れて行ってくれ、中には祖母より若くて、再婚をと言ってきてくれた方もあったとも。
「なんで(結婚)しないの?」と聞くと、「この年になってまた男と住むなんて面倒じゃないか。それに結婚したら一緒にお風呂に入ったりしなきゃいけないのは嫌」。
2、30代の私は、赤裸々な祖母の言葉に心の中で爆笑しながら、発想の面白さを楽しんでいました。
外食など滅多にしない我が家と、むしゃくしゃすることがあると美味しいお寿司を食べようとタクシーで出掛けて大枚を使ってしまう祖母。子どもの頃は、自分の両親とは違うそのお金の使い方がなんだか怖いと思うことがありました。
「自分の人生なんだから、自分の好きに生きたらいい」
当たり前でありながら、日本人にはなかなか出来ないことを実践し、体現して見せてくれたのが祖母でした。
(祖母としてはよくても、そういう奔放な人を母にもった私の母はとても苦労したこともまた事実です)
祖母は大正15年、昭和元年の生まれ。
小学校を出て集団就職で川崎のお菓子問屋へ。
当時背が小さかった祖母は、お菓子の工場のラインに届かず、「お前は使えない」と言われたそう。あまりに悔しくて、「私はそろばんならできる!」と言ったら、やってみろとそろばんを渡され、そろばんが得意な祖母は事務所で働くことになりました。工場ではなく事務所で働くことで、「自分が偉くなったようで誇らしかった」と話していました。小学校を出たばかりの小さな祖母は、事務所の中で「おまめちゃん」と可愛がられ、戦時中でみんなが食べ物に苦労するような時も食べ物に困ることはなく、勤め先が菓子問屋だったこともあり、甘いものも皆さんから頂いていつでもたくさん食べていたそうです。
秋田に戻り、シベリア抑留から戻ってきた祖父とのお見合い、結婚。ほとんど話をしたこともないのに結婚式の日を迎え、結婚式の最中に隣に座る祖父の横顔を「この人が夫になるのか」と思いながらまじまじと見つめていたとのこと。
10人兄弟、8人が女性の祖母の姉妹はほとんどが横手市内に嫁ぎました。歳をとってからも助け合えるようにと、お前はここ、お前はこっちと、いつでも会える近隣に見合い相手を見つけて、祖母の両親はみんなを「嫁に出した」のだろうなあと思います。今の感覚で考えるとそんな犬や猫の子でもあげるようなことが出来るのかと思ってしまいますが、そういう時代であったのだろうと思います。
祖母の兄弟姉妹は、フィリピンで戦死した長男を除き、機会を見つけては会って誰かのうちでお茶を飲んだり温泉に集まったり。そのお茶の席には、いつもみんなが持ち寄った手作りの漬物や寒天がテーブルいっぱいに並んでいました。
そんな姉妹たちもみんな歳をとり、1人2人と亡くなりました。火葬前に顔が見たいとやってきた祖母の妹は「あっつぁ(お姉さん)、俺も間もなくそっちさ行ぐがらな。待ってでけれな」と言ってわーんと祖母の布団に突っ伏して泣くので、こちらまで泣けてきてしまいました。でも、祖母の胸の上には巨大ドライアイスが置かれているので、新聞で見たドライアイスの事故をハッと思い出し、10秒後くらいには声を掛けておばちゃんを引き起こしました。
葬儀には祖母がお世話になったグループホームの方が折々に撮ってくださった写真がたくさん飾られていました。ふと見ると、11歳になった我が子はその写真に映る赤ん坊の自分が祖母に抱っこされている姿を見て泣いていました。
息子曰く、「会えなくなるなら、学校を休んで会いに来ればよかった」。本当だね、ママも選挙が終わったらなんて言わずに会いに来たらよかった。最近は認知症が進み、突然歌い出したり手を叩いて大きな音を立てたり、ひいばあちゃんの挙動にちょっと怯えていた様子でしたが、やっぱりもう会えないというのは寂しいんだよね、と。
認知症も進み、祖母が住んでいた増田の家を管理してくれていた親戚も高齢となり、数年前に祖母宅は解体されました。
グループホームから最後に自宅に戻ったのはいつだったのか思い出せませんが、帰りたいと思ってもあの家はないんだよと思うことはとても切ないことでしたが、雪おろしもままならず崩れかけているというのでは、解体するほうが胸の痛みが軽いということで両親も決めたようです。
毎年お正月とお盆には、グループホームから私の両親の家にきて、昼食を一緒にとることを恒例にしていましたが、昨年のお盆はもうほとんど歩くことが難しくなっていました。夫(寺田学)になんとか車に乗せてもらい連れてきたものの、自宅玄関の6、7段の階段を上がることができず。車椅子を使えないか、いや曲がり角で引っかかるなどと試行錯誤し、私の両親も高齢であることからなんともならず、最後は夫が抱っこして階段をあがろうとすると「痛い痛い痛いっ!!!」とびっくりするような大声をあげ、最後は夫におんぶをしてもらってなんとか家の中に入りました。トイレももちろん介助が必要で、とはいえ丈夫な祖母を支えられるのは私の夫のみ、ということで、夫にトイレ介助まで手伝ってもらい、私がお尻を拭き、なんとか事なきを得たのでしたが、食事を終えると「もう帰る」と。最近はホームの方が落ち着く様子の祖母でした。ほんの数時間のことでしたが、介護の厳しさ、家で介護をしているという方達は一体どれだけ大変なことかと改めて感じ、お盆や正月ももう連れてくるのは難しいかもしれない、と、そんなことを家族で思う日が突然来たことの大きな悲しみもあって、祖母をグループホームに送った後は放心状態でした。グループホームの方々にはとても柔軟に対応して頂けましたが、やはり東京と往復をしながらでは面会を躊躇することも多く、寄せては返すように流行がやってくるコロナのために会う回数も減ってしまい、他の多くの方も同じかもしれませんが、そのことも祖母の認知症の進行に拍車をかけたところもあったのかもしれないと思い、改めてコロナ影響の大きさを思わずにはいられません。年に数度しか会えなくなっていたけれど、それでも会おうと思えば会えるということではなくなってしまった、もうこの世には祖母はいないのだと思うことがとても寂しいです。
子どもと一緒に観たディズニー映画に、「リメンバー・ミー(忘れないで)」という家族の絆を描いたものがありましたが、その映画のように、祖母の生涯をいつまでも忘れずに覚えていたいと思います。