2020.03.14 10:38
一昨日の朝、夫から「9年前の今頃、福島第一原発にむけてヘリに乗ってたんだな」と言われ、瞬時にして当時の記憶と恐怖感が蘇ってきました。
あまりの惨状に言葉を失った東日本大震災から9年。東北出身の一人として、以前と繰り返しになりますが、私のあの日の、地震が発生した直後の記憶を記しておこうと思います。
結婚して一年半のあの日、私は東京で、議員宿舎におり、ひどい風邪で居間に布団を敷いて寝ていました(妊活を最優先にしていたので、薬が飲めず、この頃風邪を引くと大抵長引いて苦しんでいました)。
そこに、あの地震。地震防災の研究室で働いていたこともある私は、揺れはじめから大きな揺れまでの秒数をカウントするクセがついていました。先生の教えで、そうすることにより、今自分がいる場所から震源地までの大体の距離を知ることができるからです。最初の小さな揺れからそれなりの秒数があったのに、ここまでこんなに大きく揺れるとは、震源地は大変なことになっているとの直感。東京は震度5強。見るともなしにつけていたテレビからは地震の一報。テーブルの下に身を隠しながら、震源地がどこにしても大きな被害になるだろうと鳥肌が立ち、ソファーの隙間から少し見えるテレビを見ようと壁に耳をつけるような形になると、地震で崩れたのか、パラパラと壁の塗料なのかのかけらが壁の裏側で落ちていくような音が聞こえました。
電話など当然つながらないと思っていたら内線電話の音。夫の事務所からで、互いに無事を確認、夫は官邸に向かうとのこと。
震源地が東北であることを知り、当然家族にも電話をかけるがつながらず。夕方、秋田に帰れそうもないという友人からフェイスブック経由で連絡があり、その友人を我が家に迎えながら、二人でテレビから流れるあまりの惨状に言葉を失っていました。
ここから、東日本各地で本当に壮絶な災害が始まりました。
この頃、塩釜に住む夫のいとこは、生後1ヶ月の赤ちゃんと猫を両脇に抱え、はだしで走って避難。その後、津波で水がひかないアパートに泳いで帰り、オムツを取りに行っていました。
大学の後輩は、東北で歯科医をしていたために検視に行くこととなり、沢山の痛ましい死とまだ手付かずになっているご遺体が無造作に並ぶ海岸線を目のあたりにしたとのこと。
地震、津波、そして原発事故。そこからの日々は、鮮明に記憶に残っていること、全く覚えていないことがまだらのようになっています。事実として残っているのは、福島から引っ越し、今も秋田や北海道で生活を立て直そうと努力している友人たちがいること。
弟が病気で亡くなった時、私の世界は大きく壊れてしまったのに、外側の世界はいつもと少しも変わらず動いているように感じられることがとても辛かったことを今も覚えています。
9年前のあの日から、多くの方がそのような想いを抱えて日々悲嘆にくれていたであろうこと、今も立ち直れない、乗り越えられないと感じていらっしゃる方のことを思います。
9年目。
今年は新型コロナウイルスの件もあり、多くの方は大震災への想いが充分募らない3月11日を迎えてしまったのではないでしょうか。
想いを寄せること。
亡くなられたたくさんの方と、今も行方がわからない方々、そのご家族や友人、職場のお仲間であった皆さん、そして原発事故によって、今も多くの困難を抱えつつ暮らす方々に想いを致し、これからも寄り添っていくことをお誓いして。
てらたしずか
当時のことを思い出す意味で、
震災発生時に総理補佐官を務めていた夫の日記をよろしければご一読ください。
http://www.manabu.jp/blog-entry/2020/03/11/686/